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三木合戦図。別所を落とさないと秀吉と黒田家は絶対絶命

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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

包囲された官兵衛の各個撃破 水城・野口城の戦い【軍師黒田官兵衛百物語10】

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天正6年(1578)2月の加古川評定は、織田軍の毛利進撃へと地元の大名・武将をまとめるはずが、逆に東播磨最大の別所氏の離反を招くことになった。(前回

西の毛利と東の別所氏に挟まれた形の大ピンチである。

三木合戦図。ピンチはむしろ官兵衛であった

三木合戦図。ピンチはむしろ官兵衛であった

毛利に備えながら、別所氏の三木城を長期に取り囲むという困難な大戦略を羽柴秀吉・竹中半兵衛との間で、黒田官兵衛は決め、指揮することになる。

この大戦略の実行に、秀吉の本陣を官兵衛の居城で、秀吉に差し出していた姫路城から、やや西北に位置する書写山に移しすことを官兵衛は進言する。

毛利軍との対決のために、信長が寄こす増援部隊を収容する規模が書写山にはあった。
山中にはもともと圓教寺があり嶺嶺に僧坊をならべていたが、比叡山焼き討ちをおこなった信長の家臣の兵がくるというので、僧たちは先きを争って逃げていったという。

反撃で支城の野口城を狙う

書写山(筆者撮影)

書写山(筆者撮影)

書写山へと本営を移し、三木城を攻囲しつつ、官兵衛は三木城と共闘する周辺の城を叩く動きもみせた。そうした城の一つが、加古川の河口の東岸にある野口城だ。

大河川・加古川の河口付近だけあって、城をぐるりと泥湿地が取り囲み、攻めようとすれば湿地中の細い道を、一列縦隊で進軍するほか、手がなかった。守城側からすれば、一列で進んで来る敵兵の先頭に対して鉄砲を撃ちかけるなり、矢を射かければすんだ。

ところが官兵衛は300の手勢で野口城に迫ると、数日で陥としてしまう。
周辺の山から木を切り出し、湿地上の道に沿って投げ入れさせ、その上から土砂を被せ道を広げたのだ。
数列の隊列が通れる道幅になったのを目にした、野口城に籠城した兵たちは、戦意を失くしてしまう。

城主・長井四郎左衛門尉政重は笛ふけど踊らぬ兵たちを前に、なす術もなく開城する。

これが司馬遼太郎の小説「播磨灘物語」の描写である。

小説ではなくて、歴史史料ではこの戦いはどうなっているかも、見てみよう。

『播磨別所記』という史料には、官兵衛の名はなく、秀吉がとった戦術として描かれている。

まず城のそばに兵を集めると周囲の村を放火。城主の長井は地域の領主でもあるから、憤り城から兵を城外に繰り出す。さらには城内からも弓矢や鉄砲を撃ちまくり、秀吉隊を攻撃。

しかし、秀吉隊はこの猛攻に耐え、ひたすら土木作業を進める。石をつめた俵を積み上げて土堤をつくり、そこに櫓をたてる。

畑の麦を何万束もかりとって、水というより泥沼とかした堀を埋めていき、3日3晩、人員を入れ替えながら攻め続けた。さらに鐘やホラ貝、太鼓、鬨(とき)の声もあげつづけたため、城兵の士気はドンドンと下がっていった。こうして長井は降伏。秀吉はこれを許して三木城へと逃がした。

この史料では官兵衛の名はないが、官兵衛もそして竹中半兵衛もいたはずだ。はたしてこの作戦はどちらが立てたのだろうか。

長い三木城攻防戦の幕開けは官兵衛の勝利となった。だが、もちろん、毛利方もこのままでは済ませない。

11回につづく

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