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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

黒田二十四騎・母里太兵衛の活躍 阿閇城の戦い【軍師黒田官兵衛百物語12】

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軍師官兵衛200防御性の高くない海側の平城である阿閇の砦を毛利の大軍が襲った。(前回

守備側を指揮する黒田官兵衛はギリギリまで敵を引きつける策をとった。
城兵は抑えに抑えた恐怖を、太鼓の乱打とともに、一挙に闘争心の爆発に変え、それまで優位な心理にあった敵兵を瞬時に、恐怖の奈落へと引き入れ、心理の優位と不利を逆転させることで20倍する敵を蹴散らした。

阿閇城地図(グーグルマップより)

阿閇城地図(グーグルマップより)

 

司馬遼太郎の小説『播磨灘物語』では、その鮮やかな勝利に対して秀吉は、鞍を乗せた馬を官兵衛への褒美としてくれたとしている。そして、褒美の鞍と馬を、官兵衛は「阿閉の城の攻防」でもっとも戦功を見せた者として、おしげもなく母里(ぼり)太兵衛に下げわたしたと話しはなっている。

 

母里太兵衛友信は黒田二十四騎に数えられる一人で、朝鮮出兵では官兵衛の息子・黒田長政の先陣を勤めている。民謡黒田節のモデルで、大盃の酒を干し上げ、福島正則愛蔵の名槍「日本号」を呑み取ったということで知られている。

このお決まりの挿話以上におもしろい話しがある。江戸時代に入り、筑前福岡藩黒田家中の侍として太兵衛が筑豊に知行地を与えられて以後の話しだ。

太兵衛の知行地・筑豊には福智山という標高900米を僅かに超える山があるが、この福智山こそ日本一高い山だと言っていたという。

江戸藩邸へと上った際には、晴れた空に富士山を眺めることもあっただろうが、それでも、日本一背がある山は、わが知行地の福智山だと生涯いい続けていたと伝えられてい る。

母里太兵衛

15世紀から黒田家とともに姫路にて

実は黒田二十四騎のうち一次史料で確実に動きが裏付けられるのは、黒田一族をのぞくと、母里氏と栗山氏、後藤又兵衛基次くらいだ。

母里(ぼり)という珍しい名字は、播磨国加古郡母里(現・稲美町)出身で、のちに黒田家につかえ姫路市内に移った。遅くとも15世紀後半から姫路城下で、裕福な地主であったことがうかがえる。

つづく

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FrcoDon 文・写真

母里太兵衛邸長屋キャプション/「福岡城址に移転され遺されている母里太兵衛邸長屋門」




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