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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

毛利の逆襲! 囲まれた山中鹿介を救え 第二次上月城攻防戦【軍師黒田官兵衛百物語13】

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1578年(天正6)4月。東播磨最大の大名・別所氏が織田方から離反したことで、黒田官兵衛属する秀吉軍は一気に窮地に陥った。

別所氏を倒すべく支城を落とし(野口城の戦い)、毛利からの海からの攻撃をはねのけ(阿閇城の戦い)てきた、官兵衛だが、最も危険だったのは、毛利との国境線に位置し、前の年に落としたばかりの上月(こうづき)城だ。(佐用城の戦い上月城の戦い

三木合戦図2

4月半ば、重なる山々を超え、山陰の出雲は富田城から吉川元春が1万5000、山陽道に広がる野を肥やす、いく本もの流れを渡り安芸・沼田城からは小早川隆景が2万で、上月城に迫った。毛利両川といわれた2人の猛将の兵に、さらに備前の宇喜多忠家(当主直家の弟)の軍勢が加勢し、その数は5万を超えるまでにふくれあがったともいう。

出雲を毛利に奪われた尼子氏が上月城に籠城

上月城には、織田方の尼子勝久と山中鹿介(しかのすけ、幸盛)を中心とする尼子氏の遺臣700が立て籠もっていた。小さい城とはいえ、毛利方の美作国(岡山県)との境の西播磨の砦。そこを大軍が囲んだと『黒田家譜』にある。さらに、これら毛利軍の宗主たる毛利輝元もはるか後方ながら備中・松山城を本営として控えていた。

尼子氏とは直前までは日本海側の出雲を支配する大名だった。しかし、毛利に滅ぼされ、織田方につき、尼子氏復興をかけた。秀吉は、この毛利への恨みを強く持つ尼子氏と遺臣を毛利と接する上月城に置いていた。少数とはいえ上月城の士気は高かった。

上月城/wikipediaより引用

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豪雨で流れた信長VS毛利の決戦

対する織田軍は、上月城を助けようと、包囲する毛利軍を見下ろす高倉山に、主軍となる官兵衛が指揮する秀吉軍の7500~1万。秀吉は信長に救援を求めた。
信長はすかさず2万の兵を集め、出動を命じた。
4月29日には、滝川一益、明智光秀、丹羽長秀が出陣、5月1日には、信長の長男・信忠、次男・三男の信雄・信孝らも進発。『信長公記』によれば信長も13日に出陣する予定で、一気に毛利と雌雄を決する予定だったと考えられる。ところが、その直前の11日から13日にかけて畿内で豪雨があり、京都や安土城が大洪水となり、急遽出陣が中止になった。
もしもこの豪雨がなければ、あっさり信長の天下統一は果たされていたかもしれない。

2万の増援もすべてが上月城に向かったのではなく、信忠ら息子たちは別所氏の三木城への備えであった。
滝川一益、明智光秀、丹羽長秀が秀吉に合流したが、せいぜい合計2万くらいであろう。毛利方の5万がおおげさとしても3万程度いたとしたら、とても秀吉は数で圧倒はできない。しかも滝川、明智、丹羽は織田家でのライバル。

とはいえ数万の大軍が上月城を中心にした山間部にひしめいた。播州に人が住みはじめて以来、いや未来を考えても、これだけの人馬がここを埋めるということはないと思われる。

播磨にあらわれた、この未曾有の事態の元はといえば、前々年の1576年に、岐阜城に信長を訪ね官兵衛が建言した、中国攻め・毛利攻略の大戦略に端を発していた。

当然、官兵衛は 忙しい。来援の諸将間の連絡の取り次ぎ、別所氏の三木城の監視、そして何よりもの大事は、毛利方の将を狙った調略だった。

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にらみ合いが続き、調略も決定打とならずに

毛利軍、織田軍でにらみ合いつつ、戦闘は膠着していた。毛利軍は上月城の攻囲のみに戦闘行動を限定した感がある。織田軍の方といえば、来援の諸軍の集まりということで動きがにぶい。

そうした中で官兵衛の調略は重要だった。毛利軍中から裏切りを引き出せば戦は一挙に動き出す。宇喜多直家だった。宇喜多は毛利譜代の臣ではなく、同盟者。実力をもって下克上を生き、備前・備中・備後・美作の大守となった直家に対して官兵衛は調略の手を入れていた。

直家は病と断って、上月城攻めには兵は出すものの、弟の忠家を将として代理させている。官兵衛から送られてくる密書への密かな回答だとも読める。

ここからは、また司馬遼太郎の小説『播磨灘物語』の描写を借りよう。その後に官兵衛、秀吉の生涯にとって最も重要な節目に名が現れる、備中高松城主・清水宗治への調略が行われた。ただし、宗治本人ではなく、その家臣に対して官兵衛は調略の手を回していた。清水宗治は毛利方の将として上月城攻めの陣にあったが、留守となった備中高松城を預かっている、老臣格の鈴木孫右衛門と秋山運右衛門に宗治への裏切りを誘った。二人は宗治を恨んでいるとの情報を官兵衛は持っていた。しかして、二人は宗治が留守する高松城で反乱を仕掛けた。このことを知った小早川隆景 は大いに驚き、慌てて清水宗治を帰国させ鎮圧にあたらせた。

果たして具体的にどのような調略があったのかは『信長公記』が「謀略あい整わず」とするのみで不明なのだが、膠着した状況をなんとか動かそうと官兵衛は動いていたことは間違いない。

毛利軍が取り囲む上月城を、高倉山の本営から見下ろす官兵衛と秀吉、そして竹中半兵衛が見ていた。

播磨侵入の初戦で華々しく敵を追いだした3人は、山中鹿之介ら尼子遺臣たちを守りに入れた上月城を見殺しにすることはどうしてもできなかった。上月城の見殺しは今以上に、播磨の土豪たちの心が織田方から離れていくことを意味した。

官兵衛の献策もあっただろう、6月にはいって秀吉は決断する。

「上月城を捨てろ 信長の非情な決断」に続く

FrcoDon・記

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