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玉松が後藤又兵衛さえ避けた敵将の首を上げた戦いがあった高城を頂く丘陵直下を流れる小丸川

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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

【軍師・黒田官兵衛百物語25話】幽閉中に約束した牢番の息子が「大名」に!

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NHK大河ドラマ「軍師官兵衛」では、有岡落城直前に、幽閉されていた有岡城土牢の番人だった加藤又左衛門に対して、官兵衛が「私が預かる」と約束していた又左衛門の息子・玉松のことが、一瞬、語られていました。加藤又左衛門が土牢中の官兵衛に対して、なにくれと心配をして、牢番の立場でありながら、尽くしていたという功績から、その次男たる玉松は、黒田家の家臣に加えられることになるわけです。

後藤又兵衛を上回る戦功も!牢番の息子が「大名格」に

天正15年(1587)4月26日開城する島津重臣・山田有信の居城・高城(宮崎県児湯郡木城町高城、筆者撮影)

天正15年(1587)4月26日開城する島津重臣・山田有信の居城・高城(宮崎県児湯郡木城町高城、筆者撮影)

 有岡城落城から8年後の天正15年(1587)、17歳の玉松が島津征討戦の日向・高城攻囲戦に加わっています。玉松は、黒田家中で最も勇猛だったとされている、黒田二十四騎中の後藤又兵衛が、手強しと避けた敵将に挑みかかり、首を上げるという偉業をやってのけています。
玉松が後藤又兵衛さえ避けた敵将の首を上げた戦いがあった高城を頂く丘陵直下を流れる小丸川

玉松が後藤又兵衛さえ避けた敵将の首を上げた戦いがあった高城を頂く丘陵直下を流れる小丸川(筆者撮影)

 その後、朝鮮出兵、関ヶ原の合戦と黒田家の歴戦を支え、黒田筑前入府後には領内南部の下座郡三奈木に1万2000石を拝領したうえ、黒田姓を賜り黒田三左衛門一成(加藤一成)と名乗り、その家は筆頭家老として幕末までつづくことになります。

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兄は小西行長に仕え 黒田家へ 子孫は「幕末維新」を先導

 玉松には吉成という長兄がありました。 兄・吉成は有岡落城後、るるあって小西行長に使えます。
 関ヶ原の合戦で行長は西軍側に立ち敗将となりますが、吉成は弟の玉松改め三左衛門一成の取りなしで、以後、黒田家に仕えることになります。

 兄・吉成の家系も幕末までつづき、加藤司書という家老を出します。
 加藤司書は、福岡五十ニ万石という大藩の家老の立場にありながら、薩摩・長州の藩士よりも早く、倒幕を説いた人でした。

 筑前太宰府への、いわゆる過激五卿亡命受け入れを主導し、五卿を巡って太宰府に集まる薩長志士のあいだを取り持ち、両者の同盟への道を開きました。

五卿亡命時には、坂本龍馬も太宰府を訪れていますが、司書公が図ったことで熟した薩長同盟という果実を龍馬は、後から出て来てもぎ取っていったのでした。

福岡県朝倉市三奈木の三奈木黒田家の別邸跡。江戸前期頃の中規模な庭園(朝倉市HPより) 三奈木黒田家は、藩主の盟友的存在であった家臣団が次々と取りつぶされていく中で、唯一、明治まで家老としての地位を保ち続けた。

Frco Don・記

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つづきは「えっ、く、糞になった?!有岡城主荒木村重のその後」




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