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黒田官兵衛百物語 名脇役

【軍師黒田官兵衛百物語29】黒田家「官兵衛さまには信長もビックリ」 信長「誰だっけ?」

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官兵衛が有岡城に幽閉されることになるのも、息子・長政の命が断たれるところを、危うく救われることになるのも、天正3年7月に岐阜に官兵衛が出向き、初めて会う織田信長に対して、臣従することを申し出たことからはじまるわけです。

その時、信長は、官兵衛の進言に「大いに感じ給ひ」、太刀一腰を与えたと黒田家譜は述べています。

getだぜ!

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しかし、官兵衛が初対面の信長へと進言したという黒田家譜にある内容は、そう大したことではありませんでした。

中国地方の制覇を目指して、西から勢力を伸ばしつつある毛利勢が播磨へのと進入する前 に、織田方が兵を入れるべきだ。ついては播磨から、毛利の勢力圏である備前への貫道上にある自領の姫路は重要な拠点であり、その周辺の諸将を説いて味方に引き入れる。いよいよ織田軍が兵をあげるということになればわが小寺家が先陣を努める、といったことを官兵衛は説いたに過ぎませんでした。

この程度のことは、凡庸な将でも普通に考えつくことです。とてもとても、悪魔のような政治的感覚と、戦場では鬼神のような姿を見せる信長を感心させるような内容ではありません。

「それ当たり前の策だろ」

「それ当たり前の策だろ」

そのことを証すように、信長側の記録である信長公記には、この時の信長と官兵衛との会見の記録は見当たりません。後れて三ヶ月後の10月20日に「播州の赤松、小寺、別所、其の他、 国衆参洛候て、御礼これあり」と記事があります。播磨の領主赤松・小寺・別所氏がそろって信長に会いに来たことが簡単にふれられています。

事実は、この時に小寺家の名代として、官兵衛は赤松・別所氏とともに並んだこというものか、あるいは小寺家当主であった政職に従っていたに過ぎないものを、黒田家譜では大げさに書いているのかもしれません。いずれにしても信長公記が官兵衛ついて直接ふれていないところを見ると、この時期の官兵衛について信長は無関心だったのでしょう。

信長にとって播磨平定のための案内役などは、官兵衛に頼らずとも必要に迫られれば、どのような形でも整えたはずです。

例えば丹波の平定に差し向けていた明智 光秀を、丹波境から播磨へと進入させ中国平定への道を開くというこ選択肢もありました。光秀の才があれば播磨の小大名や国人衆への調略も、もののうちだったでしょうし、信長の寿命も延びたかもしれません。

信長が初対面の官兵衛に対して「大いに感じ」たことが事実であったすれば、そのワケは毛利氏との対戦を想定した小賢しい戦略・戦術についての進言などではなく、織田信長という怪物を、播磨という田舎の策士の分際で見つけ出した嗅覚への素直な驚きがあったのかもしれません。

信長には播磨は雛(いなか)にみえた?

信長には播磨は雛(いなか)にみえた?

Frco Don・記

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「意外?小寺家といえば忠節の家として有名だった」につづく




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