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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

【軍師・黒田官兵衛百物語31話】新たな戦場 籠城した「三木城」が陥落したのは茶会が原因?

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天正6年(1578)二月から、約2年にわたって秀吉軍を相手に篭城戦を展開した、別所長治を城主とする東播磨の三木城。

三木合戦図。別所を落とさないと秀吉と黒田家は絶対絶命

三木合戦図。別所を落とさないと秀吉と黒田家は絶対絶命だった

長治をはじめ一族が揃って自刃することで、残る城兵の命が救われれるという条件で、天正8年(1580)正月17日に開城することになります。

自刃して果てた一族の中には、長治と、その正室の子ら、五歳・四歳・三歳・一歳の千松丸・竹松丸・竹姫・虎姫らが含まれていました。これら、幼い若君・姫君は、母の照が自ら刺し通しす刃で、その命を絶たれることになります。

幽閉されていた有岡城から官兵衛が救出されて3ヶ月後のことでした。

32を数える臨時の砦・付城で囲まれ糧道を断たれていた、篭城戦後半の三木城内では野ネズミをとらえて食べる者があれば、壁をなめて飢えをしのぐ者さえいたといいます。

三木城攻め図(小和田哲男「黒田如水」95頁に加筆)

三木城攻め図(小和田哲男「黒田如水」95頁に加筆)

そんな三木攻囲戦当初の天正6年10月15日に秀吉は本陣とした平井山の付城で茶会を開いています。

秀吉が本陣とした付城を築いた三木城南西に位置する平井山(筆者撮影)

秀吉が本陣とした付城を築いた三木城南西に位置する平井山(筆者撮影)

四大茶会記の一、「宗及茶湯日記他会記」にその記録をみることができ ます。

 津田宗及茶湯日記 天正六年十月十五日条

 同十月十五日朝 於播州三喜(三木)之付城、羽柴筑前會 口切也、
 爐ニヲトコセ(乙御前)ノ釜、釣テ、後ニ手桶
 勝テヲ床二用テ、月ノ繪かけられ候、牧溪(牧谿)筆、  

手水間ニ四十石壷、かつてニ、但、繪のけて、
天目、臺ニすへ、薄 紹之平カウライ茶碗
仕立 本膳  生白鳥汁 飯
白鳥いきたるをころし候て、汁ニせられ候、此鳥ハ播州之日池(同地ヵ)へヲリ候、

〈茶道古典全集七巻より〉

茶会記には「口切」とあります。口切ノ会と言われ、その年に摘まれた茶を始めて点てる会を指すもので、茶道における新年を意味しています。茶釜は信長より拝領の「乙御前ノ釜」。壁には宋代画僧・牧谿の作品が懸かっています。

茶湯の道を識る者には、うらやましい飾りが用意された茶事です。
三木城中の兵達は、この贅沢な会をどのような思いで見ていたものだったでしょう。。。

平井山付城跡から望む三木城方面

平井山付城跡から望む三木城方面

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