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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

安国寺恵瓊 本能寺の変を予言した毛利の外交僧の軍師ぶり【軍師・黒田官兵衛百物語47話】

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本能寺の変を予想したと言われる毛利の外交僧・安国寺恵瓊(あんこくじえけい)。恵瓊はどんな状態で歴史の表舞台に出てきたのでしょうか。

最後の室町将軍となる足利義昭は、永禄11年(1568)の秋に織田信長に奉じられて上洛を果たし15代将軍職につきます。
その後、義昭は、兄であり13代将軍であった義輝を横死させた、四国の阿波に本拠を置く三好氏を叩こうとします。反三好勢を糾合するため、毛利氏と九州の雄・大友氏、備前・浦上氏の三者のあいだの和平を実現させようと画策します。

この計画を進める旨を記した、将軍側近の柳沢信政に宛てた義昭の書状に、安国寺恵瓊の名前が出て来ます。この時が戦国史主流への恵瓊の初見参でした。

一方、官兵衛が歴史の主流へ登場するのは、天正3年(1575)の夏。岐阜に信長を訪ね、中国地方へ兵を入れ、毛利氏の征討にかかることを懇願した時だと、前にふれました。

官兵衛が信長に会った、その3年前の元亀3年(1572)6月に、やはり柳沢信政宛の義昭書状中に、対立する毛利氏と備前・宇喜多氏との和解を進めるのに恵瓊が動いていることが記されています。

すごい軍師!恵瓊の大戦略

官兵衛の拠点である播磨の西に宇喜多氏・毛利氏による同盟を完成させ、一大勢力を成立させる策を恵瓊はとっていたわけです。官兵衛が信長に会見を求めたのは、こうした恵瓊の画策によって作られつつあった中国地方での動静に対応したものでした。

毛利氏を中心とした形で中国地方をまとめようようとする恵瓊。信長の兵を引き入れることで、中国地方に新しい秩序の組み立てを構想する官兵衛。二人は、対抗する立場で日本史の主流の中に登場し、その後の長い付き合いがはじまります。

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10年前に「信長は高転びする」と予想

恵瓊は、天正元年(1573)に備前に宇喜多直家を訪ねた後に、いわゆる毛利両川の吉川元春・小早川隆景の臣、山形越前守・井上春忠宛に差し出した書状のなかで、「信長はここ3年、5年と栄えるだろうが、明年辺り公家にでもなり、そのうちに『高ころびにあおのけに転』ぶだろう」と、10年後に本能寺の変で信長が落命することを予言するかに語っています。一方、秀吉については「大した人物だ」と、やはり、述べています。

毛利氏の下に外交僧としてあった恵瓊が、交渉相手として官兵衛とのあいだに最も接点を持ったのは、備中高松開城と、その事後の処理である、備中の毛利領の秀吉への割譲交渉でした。

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本能寺の直前には織田方へ転じる予定だった?

恵瓊は、備中高松開城を前に毛利氏を見限って領国を割譲する交渉をしていただろうと推し量れます。実際、そのことを証すかのように秀吉から高い評価を受け、やがて秀吉直臣に加えられることになります。

秀吉直臣に連なった恵瓊は、官兵衛と並んで軍監として四国・九州・小田原・朝鮮半島を転戦することになります。

島津征討戦では、官兵衛とともに九州を転戦。秀吉の死後の関ヶ原の合戦では東軍に付いた官兵衛に対して、恵瓊は石田三成・小西行長とともに、反徳川家康勢力を結集。敗戦後は首謀者として京都・六条河原で斬罪に処され、三条橋にその首を晒されます。

Frco Don・記

つづく

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