日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

スポンサーリンク

黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

【軍師黒田官兵衛百物語58話】毛利輝元と大友宗麟の和解を実現した交渉力

更新日:

 

秀吉が小牧・長久手の戦いを経て家康を政治的に下した頃、九州では島津義久を統梁とする島津勢が薩摩(鹿児島県)から北上し九州全土を席巻しつつありました。
豊後(大分県)守護・大友宗麟は、大坂城を訪ね秀吉に救援を要請し、その意を受けた秀吉は、島津の征討にかかることを決断します。

秀決断の一月後には、秀吉は官兵衛に対して、大友宗麟と毛利輝元のあいだの和議調整をおこなうようことを命じます。
官兵衛を軍監に、毛利・吉川・小早川の毛利一門を先遣軍として九州へ派遣することを秀吉は考えていました。
天正十四年(1586)四月十日付で小早川隆景、吉川元春、吉川元長(元春長男)に宛てた秀吉の書状には、大友宗麟とのあいだを調整させるよう黒田官兵衛を毛利輝元の元へ差し向けた旨のことが記されています。

宛所が小早川、吉川となっていることから、毛利一門の中でも、特に、本家の毛利輝元と大友宗麟とのトップ同士での調整が必要であったことがわかります。

毛利VS大友の四半世紀の因縁に終止符

毛利氏は、元就・隆元・輝元と三代にわたって、関門海峡をはさんで豊前・筑前の領有をめぐり大友宗麟とのあいだで幾多の合戦を経てきました。両者の抗争の歴史は永禄二年(1559)の門司城攻防戦以来のことで、実に、27年間に及んでいたのです。

大友・毛利がおよそ30年のあいだ攻防を繰り返した門司城主郭から望む関門海峡。対岸は毛利本領の周防・下関(筆者撮影)

大友・毛利がおよそ30年のあいだ攻防を繰り返した門司城主郭から望む関門海峡。対岸は毛利本領の周防・下関(筆者撮影)

官兵衛は、この長きにわたる抗争の調整を成功させると、天正十四年(1586)七月二十五日には島津征討・九州平定戦の軍奉行、すなわち軍監を正式に命じられ、三千の兵を率いて 京都を進発。陸路を山陽道にとり、10日後には豊前・門司へと渡ります。

官兵衛を追いかけるように毛利一門の約二万五千も八月末までには相次いで門司へ集結。自軍に、後着の毛利軍を加えた先遣秀吉軍・約二万八千の兵を翌年秀吉本軍下向までのあいだ、官兵衛は九州の山野を舞台に指揮監督することになります。

Frco Don・記

スポンサーリンク

参考)  大友・毛利、官兵衛和解調整、小早川隆景ら宛秀吉書状
〈吉川家文書 増編訂正・編年大友史料(以下、大友史料)所収〉
就大友入道上洛、九州分目相定候、遠境候条、彼国者共、若令難渋者可差下人数候間、右馬頭(毛利輝元)相談、此方城々丈夫、可申付候、次人質事、入念可相。渡黒田官兵衛尉候、猶具安国寺可被申候也
(天正十四年)四月十日 (秀吉朱印)
小早川左衛佐(隆景)とのへ
吉川駿河守(元春)とのへ
吉川治部少輔(元長)とのへ




1位 西郷隆盛49年の生涯!


2位 ホントは熱い!徳川家康


3位 意外と優しい!? 織田信長さん


4位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


5位 毛利元就の中国制覇物語


6位 伊達政宗さんは史実も最高!


7位 最上義光 名将の証明


8位 最期は切ない豊臣秀吉


9位 史実の井伊直虎とは?


10位 もしも戦国武将がサッカー日本代表だったら?


武将ジャパン・TOPページへ戻る



-黒田官兵衛百物語, 黒田家, 名脇役
-, ,

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.