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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

秀吉の一夜城が九州攻めで炸裂!VS秋月種実戦【軍師黒田官兵衛百物語63話】

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前回は官兵衛が軍監をした北九州方面軍の動きを紹介しました。その翌年…

天正十五年(1587)3月1日、豊臣秀吉は本軍を率いて、いよいよ、九州にむけ大坂を進発します。兵員30万人、馬2万頭に及ぶという膨大な糧末を一年の期間をみて準備させたといいます。

秀吉が28日に門司(関門海峡の九州側)へと上陸すると、肥後・熊本と南下し島津本領の薩摩へ迫る西回りの本軍と、豊後・日向と九州を東回りで下る豊臣秀長(秀吉の弟)軍とにわかれて進軍することになります。官兵衛は秀長の東回り軍に合流します。

侵攻経路を官兵衛が進言?

グーグルマップに加筆

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両軍の侵攻経路を官兵衛が進言したという話は江戸時代の軍記物語「川角太閤記」にあるものです。

秀吉軍は門司上陸3日後の4月1日には、豊前における島津方の巨頭・秋月種実の家臣が篭る岩石城(福岡県田川郡添田町添田)を一日で攻め落としました。

種実は岩石城南の端城(出城)・大隈城(同嘉麻市中益)に籠り秀吉軍を迎え撃つつもりでいましたが、難攻不落と言われていた岩石城が一日で落とされたことから、あわてて大隈城を破壊し、本城の古処山城(朝倉市野鳥)へと退きます。

古処山城へと転退した種実を追い、陣替えしつつ秀吉軍は、当代随一と言われていた修験道の山・英彦山に籠る座主(修験僧)勢力に迫り降伏させます。英彦山の座主・舜有は種実とのあいだで縁戚でした。

岩石城を一日でくだらし、英彦山の僧兵を慰撫した秀吉は、古処山城を囲むと、日が暮れ次第、率いる大兵団にかがり火を焚かせます。
古処山城に篭る城兵達は、かがり火がアカアカと古処山麓に広がり、打ち寄せる赤い波のように群集する秀吉軍の兵士達の姿を闇に浮かびあがらせるのをみて度肝を抜かれます。

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秀吉の一夜城

そして一夜明けた朝には、破壊した大隈城に白壁の楼を城兵達は目にすることになり、戦う意志をまったく失せさせてしまいます。
打ち壊し、捨て去ったはずの大隈城に、日の出とともに新たな城楼が建つのを「見るもの神変の思いを」古処山城の兵たちはさせられたのだといいます。

種実の降伏は岩石城陥落3日後の4月3日のことでした。
秀吉軍の難攻不落の城を一日で抜く勇猛さと、奇計に種実自信 も戦意を喪失してしまったのでした。

種実を下した秀吉本隊は、その後、肥後の南関・隈部・城・宇土・八代・出水と破竹の勢いで島津方の城を抜きながら、南下し島津義久の本領・薩摩に迫ります。

このときに種実が降伏の証しとして渡したのが、茶入れで日本3大肩衝の楢柴(ならしば)です。

秋月山・大瀧寺廃寺跡の筑前秋月氏14代・種時墓。初代・種雄(たねかつ)から種実まで17代つづいた筑前秋月氏。九州平定戦後に日向・高鍋へ移りますが、種時の墓は筑前に残された秋月氏最後の墓です(筆者撮影)

秋月山・大瀧寺廃寺跡の筑前秋月氏14代・種時墓。初代・種雄(たねかつ)から種実まで17代つづいた筑前秋月氏。九州平定戦後に日向・高鍋へ移りますが、種時の墓は筑前に残された秋月氏最後の墓です(筆者撮影)

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つづく




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