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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

【軍師黒田官兵衛百物語64話】秀長・官兵衛軍の怒濤の南下で島津降伏

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実は、秀吉本軍の九州渡海を前にした、天正十五年(1587)の正月に島津久光島津義久側から秀吉に対して和議の申し入れが行われています。

が、申し入れは、関白直轄の城となっていた立花・岩屋・宝満の筑前三城を、前年の夏に島津が攻めたこと(立花宗茂の奮闘を参照))を理由に、即、拒絶されます。

和議申し入れが不調に終わったことを受け、島津義久は筑前方面に展開させていた島津義弘・家久軍を移動させます。向かわせたのは、秀吉の異父弟の秀長を大将に官兵衛が軍監として助ける秀吉東回り軍と対峙する豊後方面です。

両軍は秀長軍が豊前から南下を始める3月13日までには豊後府内(大分市)で合流しています。

ところが、いよいよ秀長軍本隊が官兵衛、蜂須賀家政・毛利輝元・小早川隆景・吉川元春・宇喜田秀家・大友義統・石田三成の総勢約九万の兵力で豊前を発し府内を目指したことを知ると、家久・義弘は3月20日までに佐土原(宮崎市兵佐土原町)、都於郡(宮崎県西都市都於郡)へと退きます。秀長軍による調略で豊後の国人衆の離反が後を絶たなかったことが原因と思われます。もともと豊後は反島津の大友氏の領地でした。(毛利輝元と大友宗麟の和解を実現した交渉力参照

撤退する島津軍を追い秀長軍は、3月29日には日向国北部(宮崎県)の縣・松尾城に迫ると、城主の土持久綱は城を棄て佐土原へと奔ります。久綱は天正六年(1578)の耳川の合戦で仇敵の伊東祐兵を日向から追い出すことに成功していましたが、今回は、再起を期して秀長軍中にあった伊東祐兵に追われることになりました。

久綱を追う秀長軍は、日向国半ばの耳川(現・宮崎県日向市)を渡り、四月六日に山田有信が1300ほどの兵力で守る高城(同木城町高城)を51に及ぶ陣城を設けて囲んだといいます。

高城を包囲する一方、官兵衛は高城・西5キロの根白坂に築かれた宮部継潤の兵4000が守備に入った砦の東にある高地に2000の兵で陣を構えます。

4月17日の亥の刻・午後10時前後に、意を決し都於郡城を発した島津両軍2万の兵が根城坂の砦に夜襲をかけてきます。秀長軍側は一時窮地に陥りますが、夜明けと伴に圧倒的な火力で島津兵を敗走させます。
この根城坂の戦いが島津軍による組織的な抵抗の最後となりました。

敗戦を受けて、島津氏は義久・義弘・家久はそろって、まず秀長に対して和を乞い容れられます。
高城の山田有信は、抗戦の継続を主張しますが義久に説得され、子の有栄を人質に差し出し開城します。

5月8日、薩摩川内の泰平寺に本営を置く秀吉の元に、義久が頭を丸めた姿で現れます。
秀吉は義久の恭順を容れ、薩摩・大隅と日向の一部を安堵します。

島津義久が頭を丸めた姿で現れた薩摩川内の泰平寺(筆者撮影)

島津義久が頭を丸めた姿で現れた薩摩川内の泰平寺(筆者撮影)

宣教師ルイス・フロイスは、官兵衛による日向方面からの攻撃が有効に島津勢全体を弱体させたことによって、関白が短期間に九州を平定することができたと、その著書「日本史」で報告しています。

1年前の天正十四年(1586)8月に、官兵衛がはじめて九州の地を踏んで以来の島津征討・九州平定戦はここで終結を見ることになります。

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