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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

【軍師黒田官兵衛百物語66話】キリスト教徒として官兵衛はなにをしたか?

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前回(【軍師黒田官兵衛百物語65話】九州征伐追えた秀吉の凱旋茶会に官兵衛が出席しなかった理由)、秀吉が島津征討の凱旋後に伴天連追放令を出しました。

官兵衛が秀吉が凱旋の陣を敷く福岡市の箱崎に到着した6月17日というのは、秀吉がその2日後に伴天連追放令を布告させることになる直前でした。その問題への対応で箱崎浜は騒然となっていたはずです。秀吉側近であり、かつ、敬虔なキリシタンであった官兵衛には、一日たりとも茶を喫する暇などあろうはずがない着陣後の毎日でした。(前回より)

これに対して官兵衛がどう対応したかということについてふれていきたいところですが、まず、キリスト教徒としての官兵衛はそれまで何をしていたのかを今回お話します。1年ほど時計の針を戻します。

秀吉が島津征討に軍を興すことを決めると、官兵衛は大友・毛利間の和解調整を命じられたことについてはふれました。(参考「【軍師黒田官兵衛百物語58話】毛利輝元と大友宗麟の和解を実現した交渉力」

秀吉の命を受けた官兵衛は、山口の毛利輝元を訪ねることになります。

天正十四年(1586)の7月半ばから8月初めのことです。

官兵衛の山 口行きを知ったイエズス会・日本管区・副管区長・コエリョは、元々、教会があった山口での宣教活動の再開を領主・輝元へ進言するよう官兵衛に依頼しています。官兵衛は、九州遠征にむけて軍務に忙しい中、コエリョはからの依頼を引き受けると難なく、輝元から山口への宣教師の帰還と教会地の提供の約束を取る付けています。
また、官兵衛の山口行きとは別に、同時期にコエリョが伊予の小早川隆景を訪ねるのに、予めコエリョの訪問を隆景に知らせてやっています。
官兵衛の一報を受けていた隆景は、コエリョ一行を歓待するとともに、伊予での宣教師の活動の自由を約束し、甥・毛利輝元に対して宣教活動を助けてやるよう認めた書状を発行して やっています。(参考「【軍師黒田官兵衛百物語59話】島津征討のさなか宣教師保護で毛利を説得」

天正十四年(1586)12月。官兵衛軍とは別働隊として先遣秀吉軍として四国から九州に渡った仙石秀久を軍監とする四国勢が、豊後で待ちかまえる島津軍に大敗し、キリシタン大名大友氏の本拠・豊後府内を逆に島津側に奪われるということが緒戦で引き起こります。われ、イエズス会は危難を避けることができました。

Frco Don・記

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つづく

天文二十一年8月21日(1554.9.16)周防山口の太守大内義長が山口市中に国内初となるキリスト教会堂・大道寺建設に許可を与えた与えた裁許状。イエズス会から毛利輝元に対して宣教活動の再開と教会再建の取りなしを官兵衛が頼まれた山口には、官兵衛の時代を遡る30年前から教会があった

天文二十一年8月21日(1554.9.16)周防山口の太守大内義長が山口市中に国内初となるキリスト教会堂・大道寺建設に許可を与えた与えた裁許状。イエズス会から毛利輝元に対して宣教活動の再開と教会再建の取りなしを官兵衛が頼まれた山口には、官兵衛の時代を遡る30年前から教会があった




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