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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

意外と柔軟だった?朝鮮出兵した秀吉の対明講和条件【軍師黒田官兵衛百物語82話】

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秀吉の独りよがりや思いつき。また、モウロクからくる不条理な作戦の強制があったなど惨憺たる評価を受ける朝鮮出兵。(前回はこちら

秀吉が明国に対して示した講和条件の変化を見れば、秀吉が冷静な外交的判断を行いつつ指揮をとっていたことがわかります。

文禄元年(天正二十年/12月改元1592)4月に小西行長率いいる第一軍、約1万9千が釜山に上陸。その後、黒田長政率いる二軍、そして三軍と順次渡海し、朝鮮半島の要路を抑えながら破竹の勢いで日本軍は進軍。5月に開城、6月には平壌を陥落します。

文禄の役釜山攻略図(Wikipediaより)

この時点で秀吉が朝鮮の宗主国で ある明国に対して示した講和条件は以下です。

  1. 明皇帝の王妃を日本の后妃として差し出す
  2. 勘合(貿易)を復して官船・商船の往来を認めること
  3. 日本・明両国の大臣が誓紙を取り交わす
  4. 朝鮮八道のうち、南四道の日本への割譲
  5. 朝鮮王子及び家老、1、2名の人質差し出し
  6. 日本側が捕虜にとる朝鮮王子の返還
  7. 今後、朝鮮重臣の日本への反抗がないこと

進撃ルート(Wikipediaより)

明帝王妃の差し出しなど相当きつい内容も一部ありますが、破竹の勢いで明との国境近い平壌を自軍が制圧しているのにも関わらず秀吉は明国内の割譲にはふれてはいません。また、「明との勘合(貿易)を復して」とは明国皇帝の冊封を受け入れる。つまり明帝の家臣 になることを秀吉自らが望んでいることを意味しています。
文禄二年(1593)5月の明の使節との接見の場で冊封のことについて話が及ぶと「自ら実力で天下をこの手にしたものを、なにゆえ明帝の家臣にならなけらばならないのか」と秀吉が激怒したと云う話は後の世に作られた物語に過ぎません。

文禄四年に至って、再度、秀吉は講和条件を示します。

明帝王妃の差し出しが外され、朝鮮からの人質は王子一人に減数。朝鮮八道中の四道割譲はそのまま条件として残しますが、これら割譲を受ける四道を朝鮮の王子に与えるとしています。更に朝鮮王子の身柄が日本側に移った時点で日本軍が築いた15の城のうち10を破却するとする、相当な譲歩が含まれて います。

実は、当たり前の外交交渉を一体とした作戦行動が朝鮮で展開されていたのです。

FrcoDon・記

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続く




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