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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

【軍師官兵衛百物語84話】黒田如水の次男熊之助の水死に不審点あり。一緒に遭難した人が生きていた?

更新日:

熊之助は、官兵衛が播磨山崎の領主としてあった時代の天正十年(1582)に生まれた次男です。
長男長政とは14歳年が離れています。官兵衛夫妻にとっては、ようやく授かった二人目の男の子でした。

ところが熊之助は慶長の役で朝鮮へ出兵している官兵衛と長政を追って、朝鮮を目指す途上に海難に遭い十六歳で死んでしまいます。
熊之助の海難事故については「黒田家譜」には記すところがなく、黒田菩提寺崇福寺に建つ熊之助墓碑銘にあるのでした。

黒田菩提寺崇福寺の熊之助墓

黒田菩提寺崇福寺の熊之助墓

「侯爵黒田長成撰」とそこにはあり、福岡藩最期の藩主長知の子長成の撰によるものだとわかります。

黒田長知/wikipediaより引用

熊之助は官兵衛が有岡城幽閉時に荒木村重の臣でありながら、幽閉中の官兵衛を助けたことで黒田姓を授けられ家臣となった加藤又左衛門一成(参考「【軍師・黒田官兵衛百物語25話】幽閉中に約束した牢番の息子が「大名」に!」)の子吉松と母里太兵衛の子吉太夫、そして木山惟久(これひさ)を伴に船出します。

難破した熊之助らの船は、船体のみになって豊後の中津(大分県中津市)の浜に打ち上げられるのですが、惟久が「大幣を名こそ立てれ 流れても ついによる瀬はあるというものを」という古今集にある歌とともに、姓名と居所を帆柱に書き付けていたことで海難にあったことがわかったという話になっています。

帆柱に和歌などを書いたという木山惟久は肥後(熊本県)の木山城の元城主で、官兵衛中津入府後は連歌をよくしたことから御伽衆に取り立てられた人です。御伽衆に取り立てられうような人ですから、 年齢もかなり行っていたと思います。そんな人物が止めることをせずに熊之助の語らいに乗って一緒に出帆するというのも不思議な話です。

また、惟久は黒田筑前転封後には官兵衛が太宰府に再興した連歌屋の初代庵主を勤めたと「黒田家譜」ではなっていて、朝鮮出兵後も生きていたことになっています。

不思議を感じる熊之助海難の話です。

Frco・Don 記

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つづく




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