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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

【軍師黒田官兵衛百物語90話】九州で立った如水が集めた8千の兵は誇張か

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前回、官兵衛が<九州関ヶ原>を戦うにあたり、軍をおこす許可を家康に図り、進軍の途上でも連絡を取り、かつ、小倉城攻撃のように具体的な命令も受けつつ、最後には家康の停戦命令によって軍を収めたことについて語りました。(参考:岡田准一涙目!天下なんて狙ってなかった!家康への忠誠の九州転戦【軍師黒田官兵衛百物語89話】)

今回からは数回にわたり、九州関ヶ原戦での挿話を物語いたします。

黒田家譜によると、本戦である関ヶ原の合戦(岐阜県)への秒読み段階に至った中央の情勢をにらみつつ、九州で東軍の兵を起こし西軍諸城を攻撃するのに、官兵衛は金銀をばらまいて兵を募りました。その数は8000人に及んだということです。

いくら、太っ腹に金銀をばら まいたとしても、息子の黒田長政が、その所領の豊前六郡十二万石の徴兵能力限界の5000もの兵を率いて家康とともに東国へ出兵していることを考えれば、この数は七、八倍の誇張をもって語っているものとも考えられます。

大名の徴募能力は一万石に対して250名が常識とされています。そこへ、いくら大判振る舞いを行ったとしても、徴募能力を3倍も超えて、新たな徴兵を行うなどということは不可能です。

浪人もいただろうと、言いますが、全国の武将が人を駆り集めて天下分け目の戦いの準備を行っていたのです。百姓も兵站にかり出されています。草叢をかき分けても、猫の手ひとつ見つけることができない始末だったはずです。

そもそも、九州の西軍諸城を攻めるといっても、むこうも事情は同様で、関ヶ原の合戦にむけて主力を送り込み、どの城も年寄りや子どもを中心として100や、多くても200という人数で守っていたのです。そこへ攻略を行うというのに8000もの兵力は不要です。

官兵衛が集めた兵力は多くても1000というところが事実だと思われます。

その後の別府石垣原の合戦で、対する大友義統軍は800ながら互角の戦いを見せています。このことも、官兵衛の集めた兵数が1000程度であったことの傍証として考えられます。

さて、兵を整えた官兵衛は中津を慶長五年(1600)九月九日に進発すると、豊後高森城の弟・利高と合流し、国東半島の安岐城と冨来城を囲みます。翌十日には、豊後高田へと進み、高田城の竹中半兵衛の従兄弟、竹中重利の東軍帰参を誘い、軍中に加えました。

同日、毛利氏の支援を受けた大友義統が旧領豊後奪還に燃え別府へ上陸。南進し、丹後を領する細川幽斎が飛び地として家康から拝領したばかりの杵築城を襲います。城代・松井康之を置く杵築城の兵力は100ほどでした。

義統が杵築城の攻囲にかかったことを知った官兵衛は、十三日に井上九郎衛門などを、杵築救援に向わせます。
義統は杵築城の本丸近くまで攻め寄せていましたが、杵築城攻略をあきらめ、黒田軍を野戦におびきだそうと同日中に別府石垣原へと陣替えします。

囲いからとかれた杵築城の松井康之は、援軍として駆けつけた井上九郎右衛門ら黒田軍とともに 、大友軍を追い石垣原で七度の合戦に及ぶことになります。

その松井康之は茶人としても有名で、利休の最期の手紙を受け取った人物として知られています。利休が秀吉の命で切腹する2週間前の天正十九年二月十四日に書かれたものです。

死の前に利休は堺へ下りますが、秀吉の目をはばかって誰も見送りに立つ者がないなか、康之の主君・細川忠興と古田織部の二人のみが淀川で見送りました。
手紙は、忠興と織部が見送りに立ってくれたことへの驚きと、そのことについて感謝を伝えて欲しいという内容でした。

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