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黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

九州の関ヶ原・石垣原の戦いで敗れた大友義統のその後【軍師黒田官兵衛百物語94話】

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ここで、旧自領の豊後奪還を賭けて、西軍として豊後へ上陸し、官兵衛と戦い石垣原で破れた大友義統(よしむね)について振り返ります。
父・宗麟の懇願に応えて、豊臣秀吉が軍を興した14年前の島津征討戦では、九州へと先遣されてくる官兵衛や長宗我部氏の救援軍を心待ちにする立場にありました。

石垣原合戦で大友軍左翼を担った宗像鎮続の陣跡から望む石垣原と黒田本陣の実相山方面

石垣原合戦で大友軍左翼を担った宗像鎮続の陣跡から望む石垣原と黒田本陣の実相山方面

それだけでなく、義統にとって官兵衛はキリスト教徒としての導きの親だったのです。義統は当時、代表的なキリシタン大名として知られる宗麟を父に持つのにも関わらず、島津征討戦の最中の天正14年(1586)に官兵衛の嫡子・長政らと一諸に、官兵衛の導きで洗礼を受けたのです。
官兵衛との縁でコンスタンチノ義統となった義統でしたが、洗礼を受けた翌年の天正15年6月に秀吉が伴天連追放令を布告すると、さっさと棄教してしまいます。さらに、その頃にはまだ領有していた豊後において信徒への迫害を行い、殉教者を出しています。

ところがところが、その後、天正18年6月に帰国した天正遣欧使節(九州のキリシタン大名、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の名代としてローマへ派遣された)が播磨の室津に滞在しているのを知ると、訪ねて行きました。縁者である使節の一人の伊東マンショを通して棄教を悔いていることをイエズス会へ伝え、再度、豊後へ宣教師を受け入れたいと申し入れ、許されています。

石垣原合戦時の大友義統本陣跡/別府市観海寺温泉

石垣原合戦時の大友義統本陣跡/別府市観海寺温泉

話を、関ヶ原合戦時に戻すと、豊後へ上陸後、別府・石垣原で官兵衛軍との決戦に及んだ義統は主力の将・吉弘統幸と宗像鎮続が討ち死にした翌々日の9月15日に、奇しくもこの日は、関ヶ原での合戦が一日で終わった日ですが、妹婿で官兵衛の家臣・母里友信を通して降伏を官兵衛に申し入れます。

義統は天正遣欧使節との面会で悔い改めていたはずでしたが、この時点でまたも棄教していました。官兵衛によって降伏が受け入れられ、黒田居城の豊前中津城へと護送されると、義統は再び棄教を悔い告解を行い、その後、常陸の宍戸に流罪となります。

ここで書き添えておきますと官兵衛は、義統が毛利輝元の元で、西軍としての兵を起す準備を行っているところに使者をやって東軍への参加を説いています。また、義統がいよいよ別府へと上陸して際にも無駄だと知りながら2度目の使者を送っています。

義統は配流先の常陸宍戸で慶長15年(1610)に死去しますが、さきに家督を譲っていた義統の長男が大名の礼法指導などを行う高家(赤穂浪士事件の吉良家などで知られる)として家康に取り立てられていたために存続します。

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つづく

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