日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

意外と優しい!? 織田信長さん

黒田官兵衛百物語 黒田家 名脇役

関ヶ原が1日で終了。慌てる中川秀成と武士道見せた臼杵城の太田一吉【軍師黒田官兵衛百物語95話】

更新日:

 

国東半島の安岐・富来の2城の攻略と平行して官兵衛は、府内城(大分県大分市)・日隈城(日田市)・臼杵城(臼杵市)へと兵を派遣して攻略にかかっていました。

府内城は秀吉による方行寺大仏殿造営や朝鮮出兵時での功績があった早川長敏の居城でした。関ヶ原合戦時は一族の九右衛門が預かっていましたが、石垣原(いしがきばる)の戦いで、西軍の大友義統(よしむね)が敗れると開城しました。

日田・日隈城には文禄元年(一五九二)から毛利高政が封じられていました。高政もまた、西軍として関ヶ原へ出陣中であり、城代・毛利隼人佐が財津氏など国人衆も取り込み、城を固める 構えをみせます。官兵衛は栗山利安を日田へ進攻させると同時に、再三の降伏勧告をおこない無血開城させます。

 

西軍敗退を知っても抵抗を続ける臼杵城

堅城で知られる臼杵城跡(筆者撮影)

堅城で知られる臼杵城跡(筆者撮影)

臼杵城は、朝鮮出兵の戦功から太田一吉(かずよし)の城となっていました。一吉は関ヶ原での西軍敗戦を知った後も頑強に抗戦を続けます。

関ヶ原の合戦で東軍勝利が九州へも知らされた後に、その臼杵城を岡城(竹田市)主の中川秀成が慌てて攻略にかかります。

中川秀成/wikipediaより引用

秀成は徳川方に味方すると家康に対して起請文をいれていたものの動かずに黙りを決め込んでいたのです。

9192話と秀吉によって奪われていた自領豊後を奪還するべく大友義統が官兵衛に挑んだ石垣原の合戦について物語しましたが、この戦いに義統側の主力 の将に吉弘統幸と宗像鎮続が出て来ます。この連載では名前を挙げませんでしたが、田原紹忍という大友家重代の家臣も義統に参陣していました。

 

スポンサーリンク

実は西軍に重臣を送り込んでいた中川

この三人のうち、宗像鎮続と田原紹忍は義統が豊後を奪われたあと中川秀成の元にいました。
秀成の言い訳によると、二人は無断で、かつての主君である義統の元に参じその上、中川の旗印を掲げたといいますが、秀成は家康に証文を入れながら、本心は西軍への加担があったと考えて間違いないかと思います。鎮続と紹忍の義統軍への参陣は秀成の意志によるものであったのでしょう。

ところが関ヶ原では東軍が一日で勝利し、大友義統は官兵衛によって石垣原に破れるという状況に慌てて、官兵衛に参陣を申し入れ西軍方の太田一吉の臼杵城への攻撃を はじめたのです。

臼杵3

一吉は秀成による家康への取り繕いのための攻撃をよくかわし寄せ付けませんでした。秀成を散々翻弄して末に、最後は秀成に対してではなく、官兵衛への降伏という条件で一吉は城を開きます。

開城後、一吉は領地を没収されますが、剃髪し宗善の号で余生を京都で過ごしたといいます。

Frco・Don記



スポンサーリンク

スポンサーリンク

つづく

前回は「九州の関ヶ原・石垣原の戦いで敗れた大友義統のその後【軍師黒田官兵衛百物語94話】」
臼杵2
臼杵城は南蛮貿易を有利におこなうための居城として、大友宗麟が三方を海に開いた臼杵丹生島に築いた。寒村であった臼杵は、臼杵城築城とともに、南蛮交易の港市となり、九州の政治経済の中心地となる。
キリスト教布教の根拠地ともなり、永禄十年には市中に教会堂が建設された。天正八年には修道院、 同十年には大聖堂が建設される。(大分県臼杵市臼杵丹生島

 

お好きな大河ドラマ作品を選べる!





意外と優しい!? 織田信長さん



生誕450周年!伊達政宗さんの生涯



毛利元就はナゼ一代で中国地方の覇者となれた?


井伊直虎の生涯46年をスッキリ解説!



武将ジャパン・TOPページへ戻る



スポンサーリンク

-黒田官兵衛百物語, 黒田家, 名脇役
-,

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.