黒田官兵衛が長政に「ばかもの!お前の左手はなにをしていた」は200年後の創作

 

黒田官兵衛(如水)は、関ヶ原の戦いにおいて、息子の長政を家康と共に行動させました。 長政は小早川秀秋や吉川広家(毛利隊が家康を攻めるのを体を張って止めた)の調略に成功するなど、東軍で一、二を争う武功をゲットします。

(富永商太・絵)

(富永商太・絵)

そのため父・官兵衛が留守を預かる中津城にはほとんど兵がいませんでした。地元から兵を集められなかった島津とは大違いです。 そのとき、恐ろしい才覚を発揮したのが官兵衛です。

城内にあるカネで浪人や百姓ら一説には9000人も集め、単なる寄せ集めの彼らを強兵に仕立て上げたのです。そして、熊本城の加藤清正と共に在九州の西軍へと襲いかかり、続々と大勝利を得ます。実際には、調略やキリシタン大名としての人脈を生かした交渉術がたけていた面も強かったようです。(参考「軍師黒田官兵衛百物語 進撃の如水軍!実数は盛りすぎも九州北部を快進撃」

この後、関ヶ原で大活躍した長政は中津城に凱旋するのですが、ここで官兵衛史上、最も有名な逸話がでてきます。

長政がドヤ顔で「家康殿は私の手をとって感謝してくださいました」と言うと、官兵衛は「ふーん。家康殿はお前のどっちの手をとった? 右手か、それとも左手か?」と問いました。 長政が「右手でした」と答えると、「ばっかもーん!そのときお前の左手はなにをしていたんだ!」と言ったというものです。つまり、空いた左手で家康を刺し殺せば、官兵衛が九州から都へ駆け上り、天下を取っていたのにこのバカチンめ!と叱ったのです。

これは『(黒田)故郷物語』がネタ元です。

黒田故郷物語(早稲田大学古典籍データベースより引用)

黒田故郷物語(早稲田大学古典籍データベースより引用)

また、『常山紀談』では、死の間際に「オレはギャンブラー。関ヶ原で三成がもう少し持ちこたえていれば、九州から攻めあがり天下を統一したかった。その時は息子を捨ててでも一博打を打ちたかったぜ」と語ったとしています。

いずれも「イイネ」ボタンやリツイートしたくなりますが、『常山紀談』は18世紀末(関が原から200年後)の随筆で、いずれも後世の創作で事実ではありません。ザンネンネ

官兵衛は「九州で切り取った分は頂きたい」と戦国武将らしく張り切ったのであって、特に天下までは求めていなかったというのが真相。

実際、親子の活躍で118万石から3倍近い52万石の福岡藩を入手して、明治維新まで大藩として繁栄を続けました。

2代で滅んだ秀吉に比べ、数百年先を視野に軍略を巡らした官兵衛は歴史的な勝者といえるのです。
長政3
川和二十六・記

 








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