日本初の歴史・戦国ポータルサイト

BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン)

スポンサーリンク

黒田官兵衛百物語 名脇役

福岡藩祖としての黒田如水の生き様と細川氏との一触即発【軍師黒田官兵衛百物語98話】

更新日:

黒田家が筑前の太守となった1600年(慶長5年)の暮れには官兵衛(如水)は忙しく上洛し、家康に拝謁した後、年が明けた3月に筑前へと戻っています。その翌年(1602年)も5月には上洛の記録があります。1603年には正月に上洛、2月に筑前に戻り8月に再度上洛。そのまま、京都・伏見で翌1604年(慶長9年)3月に不帰の人となります。

この間、半分程の時間を官兵衛は筑前国内(福岡県)で過ごしました。

 

伝承ではご隠居生活 実際は働きマン

筑前での官兵衛の暮らしについては、
大宰府の連歌屋を再興して連歌を楽しんだ。
築城半ばの福岡城北の丸の隠居屋・御鷹屋敷に住み、気が向くと 古参の家臣宅を訪れ、日がな昔語りをした
などの伝承があります。

筑前における史実としての官兵衛の動きは、官兵衛が直轄領として居館を置いた宗像郡、現在の福岡県宗像・福津の両市に残された書状によって知ることができます。

慶長6年(1601)か7年(1602)の何れかの11月28日付の宗像郡の田久村と三郎丸村の代官を勤めた馬杉喜右衛門という人物に宛てた書状には、

養子に取り長政と同じ幼名・松寿と名付けて育てていた、妹・慶寿院の子のあてがい扶持を弟の黒田利則へ預けること、田川郡を預かる後藤又兵衛との間の米の貸借の処理についての言付けなどが記されています。

後藤基次像(福岡市博物館蔵)/wikipediaより引用

やはり両年いずれかの9月8日付けの黒田二十四騎一人、吉田長利宛の書状では、

長利とやはり二十四騎の井上之房との間に何か懸案があったらしく

「あの件はお前(長利)から之房に話しておけ」と云うことと、
鐘ヶ崎という村から津屋崎浦へと着くはずの年貢米の遅れに

ついての細かい指示が語られています。

 

スポンサーリンク

博多の外港に水軍を集結させる

ここに出て来る津屋崎浦とは、宗像郡の良港で、幕末まで博多の外港とされた重要な港です。
官兵衛はこの津屋崎浦を中心に、朝鮮出兵時など水軍が動く時には必ず名前が出て来る、海将の松本勝重、貝原市兵衛、高原次郎左衛門らを宗像郡内に集めます。官兵衛は、万一に備えて津屋崎浦を黒田水軍の母港として整備していたのです。

その万一とは、西隣の豊前・細川氏との対立によるものでした。豊前は黒田の旧領なのですが、黒田は筑前へと移る時に豊前で集めていた年貢米を筑前へと持って来たのでした。
これは黒田側の慣例違反で、旧領の年貢は置いて来るというのがルールなのです。細川側からは当然のこととして、年貢米の返納を言って来るのですが、これを黒田は無視します。そこで細川は上方を目指して豊前沖を航行する黒田船の拿捕を計画します。

結末としては幕府の調停により総量10万石ほどだったかと思われますが、黒田が分割で細川へ返済することになります。軍事衝突は、ぎりぎりのところで避けられました。

最晩年の官兵衛を受け入れた筑前には、連歌会や古参家臣との昔語りを楽しんで暮らすだけではすまされない、緊迫した現実があったのでした。

FrcoDon・記

スポンサーリンク

つづく




1位 西郷隆盛49年の生涯!


2位 ホントは熱い!徳川家康


3位 意外と優しい!? 織田信長さん


4位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


5位 毛利元就の中国制覇物語


6位 伊達政宗さんは史実も最高!


7位 最上義光 名将の証明


8位 最期は切ない豊臣秀吉


9位 史実の井伊直虎とは?


10位 もしも戦国武将がサッカー日本代表だったら?


武将ジャパン・TOPページへ戻る



-黒田官兵衛百物語, 名脇役
-

Copyright© BUSHOO!JAPAN(武将ジャパン) , 2017 AllRights Reserved.