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吉田松陰と松下村塾

自分探しの旅人生「漁船を軍艦に!」若き吉田虎次郎の海防視察「廻浦紀略」【吉田松陰と松下村塾百物語9話】

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旅を続けた吉田松陰。

松陰は旅をすることで、自身に求められる、あるいは自己の意志が招く行動の原理を練り上げました。獄中や幽閉生活のなかで、その練り上げた原理を行動に移す試みを絶えまなく繰り返した末に、斬首という形で人生の結末に至ります。

北は青森の竜飛岬から南は肥後天草までを巡る、憑かれたように旅する松陰の姿は、志を遂げるためのものであったことは間違いありません。が、あたかも自ら投獄・幽閉を、そして最後には死を望んで、いらだたしく道をいったという感すらあります。

津軽海峡冬景色で有名な竜飛岬(青森県外ヶ浜町HPより)

そんな松陰の、本人としては一片の曇りも不安もなく希望に満たされている一方、確実に死に向って続けられた旅の最初は、松陰二十歳の時でした。藩命を受け嘉永二年(1849)六月から約一か月半のあいだ、同僚の藩士数名とともに、日本海に面した長州藩の海岸線の海防状況を視察したのです。

松陰は視察した内容を「廻浦紀略」として日記に残していますが、七月十三日の項に「朝、浦の漁船を発す、幅七尺、長さ三丈、堅実にして軍用に供すべし」と記しています。幅2・1メートル、長さ5・5メートルの小さな漁船を「堅実」だとして軍艦に代用するべし、と松陰は真顔で述べているのです。

こうした幼稚さを松陰は旅を重ねるごとに払拭し、行動の原理を研ぎすませていくことになります。

回からしばらく、初めて藩外へと松陰が旅した記録 「西遊日記」を紹介しつつ、原理探求の過程をたどれればと思います。また、旅は、松陰のわがままも、傲慢も、なさけなさも伝えてくれます。それら、挿話への脱線・寄り道もしつつ松陰の旅の跡を追ってみます。

FrcoDon・記

萩城から見た日本海

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