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吉田松陰と松下村塾

心躍る21歳の松陰の長崎平戸への旅日記の1行目【吉田松陰と松下村塾百物語10話】

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19歳で兵学師範として藩校の教壇に初めて立った2年後の嘉永三年(1850)八月二十五日。吉田松陰は萩を発ち、家学として受け継ぐ山鹿流兵学の宗家を伝える平戸へと旅したことを「西遊日記」としてまとめています。

平戸藩松浦家は、四代・松浦鎮信(しげのぶ、1549~1614)が山鹿流兵学の祖師・山鹿素行(やまがそこう、1622~85)に親しみ、素行の異母弟・山鹿四郎左衛門平馬を招聘し藩学として継承させていました。

松陰が藩へ提出した平戸遊学の願には「平戸松浦壱岐守様御家来葉山佐内と申す者拙者同流の軍学鍛錬仕り候由承り候に付き、彼の方へ罷り越し稽古仕り候はば、流儀修練の便りにも相成るべくと存知奉り候」(平戸藩には葉山高行がいて私と同流の軍学を修めている人でそこで学んで参ります)とあり、平戸藩中老で軍学者の葉山高行(たかゆき)を訪ね教えを請う目的もありました。

前回、松陰が藩内海防視察の旅を行ったことを紹介しましたが、その視察の途上に立ち寄った下関の豪商・伊藤木衛門から軍学者としての葉山の高名を聞いていたのです。

くわえて旅程に長崎を入れることで国内で唯一、海外に開かれた窓口の長崎へ流入する西洋砲術をはじめとした西洋の新兵術、学問を摂取することを松陰はもくろんでいたのでした。

現在、松陰の家として山口県萩市内で一般に紹介されているのは、市内を一望する団子岩の生家と、松下村塾と並んで建ち、松陰の家族が「小新道の家」と呼んだ松陰神社手前の家です。この家へと越す前に一家は、嘉永元年(1848)に団子岩から父・百合之助の姉、松陰の叔母が嫁いでいた清水口の高須家の屋敷を、一部、間借りし5年間住んでいました。

つまり
団子岩

萩城外西方の団子岩の松陰生家跡から見下ろす萩城下

萩城外西方の団子岩の松陰生家跡から見下ろす萩城下


高須家

松陰神社西側の松陰「清水口の家」高須家屋敷

松陰神社西側の松陰「清水口の家」高須家屋敷


小新道の家

萩市椿東の松陰神社手前の松陰「小新道の家」

萩市椿東の松陰神社手前の松陰「小新道の家」

松陰のこの日の旅立は、松陰神社一ノ鳥居を前に120メートルほどの位置にあった、この清水口の高須屋敷からでした。

西遊日記の1行目となる八月二十五日の記述は「晴。早朝、戒ケ坂(かせがさか)ヲ越テ夜明ク」と短く強く文を閉じる形で記されます。清水口の高須屋敷を未明に発ち、最初の一里塚がある現在の鹿背坂(萩往還公園)の戒ケ坂で夜明けをむかえました。

旅の行方に踊る松陰の心の波が伝わってくる日記のはじまりです。

萩市鹿背坂・萩往還公園近くの旧道に残る戒ケ坂の一里塚

萩市鹿背坂・萩往還公園近くの旧道に残る戒ケ坂の一里塚

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