砦としての「真田丸」とは?城郭検定保持者が優しく解説する 真田幸村の智謀と勇気

 

【編集部より】
三谷幸喜さんが脚本を手がけ、堺雅人さんが主演で話題のNHK大河ドラマ『真田丸』。
いよいよ堺雅人さん演ずる真田信繁(幸村)が大坂城に入り、家康率いる徳川方と一戦まみえるワケですが、まず最初に確認しておきたいことがあります。それは「大坂の陣は冬と夏に2度行われており、真田丸が築かれたのは最初だけ」ということです。
冬の陣では砦(真田丸)に入って徳川軍をぶっ潰し! 夏の陣では特攻をかけて家康を死の寸前まで追い詰めて!いるんですね。

1614年→大坂冬の陣(幸村が真田丸で奮戦
1615年→大坂夏の陣(幸村が家康に死の特攻・大坂城は陥落)

この2点を事前に把握しておけば、今後のドラマストーリもすんなり頭の中に入ってくるでしょう。今回の記事で説明申し上げたいのは、砦としての「真田丸」です。

一体「真田丸」とは何なのか?
それだけストレートに読み進めたい方は、コチラをクリックしてください。前半部分は大坂城の説明も含まれまして、そこは飛ばして読まれても内容に過不足はございません。

大坂冬の陣・布陣図/wikipediaより引用

大坂冬の陣・布陣図/wikipediaより引用

 

信長も秀吉も超苦労した拠点に弱点っておかしくない?

一般的に真田丸は「大坂城の弱点と言われ、唯一の陸続きである南側の“平野口”を強化するために築かれた馬出(うまだし)もしくは出丸(でまる)」と説明されます。

城の補強のため真田丸が築かれたのは、確かにその通りです。
が、「馬出」というのは、そもそも攻城戦で最も狙われやすい城門補強のために造られるもので、真田丸が設置された台地や尾根伝いの陸続きの場所を強化する防御設備は通常「堀切」と呼ばれます。

ともかく私にはこの時点で非常に不思議なことがあります。
戦国時代のお城は全国に何万(細かい拠点も含めて一説には4万)と築かれていて、その中でも数多の修羅場を切り抜けてきた猛者どもの集大成が「大坂城」です。
そんな大坂城が、ですよ。台地の陸続き部分が弱点となるって、なんだかおかしくありません?

別に、真田信繁に指摘されなくても、ましてや我々現代人に言われずとも、築城時の縄張り段階でそのことは十分に把握していたのでは?
天下の豊臣秀吉がそんなわかりやすい弱点を見逃すと思われます?

実際、大坂城が築城されるちょっと前、この地にあった「石山本願寺」は難攻不落の要塞でした。
これを攻めた織田信長は、やはり陸続きの台地に本陣を構え、何年にも渡って包囲せねばならなかったほどです。おまけにこの「石山合戦」には秀吉自身も参加して数多の苦汁を飲まされており、自身が大坂城を築城するとき「台地の陸続き部分」の防御を放置していたというのはちょっと考えられません。

少し遠回りになって申し訳ありませんが、真田丸の真実を解明するのに「堀切」は非常に大切なことですので、こうした疑問にも触れつつ先へ進めて参りたいと思います。

 

江戸城や金沢城にも同じ構造が見える!?

城郭、特に山城を築城するのに理想の適地は、独立峰の「男山」だと言われています。
連峰の「女山」では、尾根伝いの攻撃が城の弱点となって防御に向きません。が、男山ならば360度視界が開け、かつ城郭部分が唯一の高所になります。

戦国時代初期にはすでに、全国各地で尾根続きが城の弱点として指摘されており、実際、このルートからの攻城は定石でした。
しかし、当時の実情を考えると、戦略要地にそうそう都合よく男山がそびえているとは限りません。
そこで在地領主たちは女山での築城にも取り組まなければならないワケですが、ここで発明された防御施設が「堀切」でした。
尾根筋を分断するよう深い切り込みを入れ、敵の攻城兵が簡単に平行移動できないようにしたのです。

真田丸お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20160101-1

この2枚の写真は、山城の典型的な堀切です

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堀切は、そもそも山城によく見られる仕掛けでした。それがいつしか近世城郭の平山城や平城にも用いられるようになり、その最高峰・江戸城でも見られます。
東京の都市化に呑み込まれてあまり意識されませんが、江戸城は、荒川と多摩川に挟まれた武蔵野台地の突端に築かれた城で、北西に向かって緩やかに上っていく台地になっています。
この陸続きの江戸城北西部の千鳥ヶ淵や半蔵門辺りの三宅坂には、これでも都心か?というほどの深い堀が掘られ、武蔵野台地から江戸城を分断しています。
以下の写真が江戸城の堀切です。

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半蔵門付近の堀。両岸でほぼ同じ高さなのが分かります。江戸城側は土塁の上にさらに石垣を築いて高さで勝ろうとしています

 

江戸城の「尾根伝い」に対する防御戦略はそれだけじゃありません。
広大な西の丸を築いて十分な縦深を取り、本丸を標高の高い台地から守るように作られております。

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江戸城では四ッ谷辺り(上智大学など)にも外堀が通っていて、さらに西側の高地に対して防備強化されており、二重の防御で外部からの攻撃に備えています。
もしも幕末に無血開城されていなかったら、西側からの攻略も決して簡単ではなかったでしょう。

 

これと構造的にはよく似た地形に建てられたのが金沢城です。
同城も台地(小立野台地)の突端に築かれた城であり、小立野台地から金沢城を分断する巨大な堀切は石川門と兼六園の間にあります。
現代では交通量の多い道路になっていますが、昔は水堀でした。

真田丸お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20160101-5

金沢城内の解説板より。台地の突端なのが分かります

 

金沢城も台地を堀切で分断し、城の対岸に兼六園を造成することにより十分な縦深を取り、本丸を防衛しているのです。
城マニアにとっての兼六園とは、加賀百万石を代表する庭園ではなく、金沢城の防御力を強化する重要な防衛施設なのです。

真田丸お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20160101-6

堀切と広大な兼六園で、台地伝いから金沢城本丸への直接攻撃を阻止している

このように、近世城郭のような平城や平山城でも「尾根伝い」を「堀切」で分断し、更に「縦深のある郭」を構築して本丸の防御力を高め、弱点を強みに転換しているのです。
では大坂城はどうでしょう?

 

大坂城の空堀を前に伊達政宗も松平忠直も撃沈す

大坂城は「上町台地」の突端に本丸が築かれました。
台地の陸続き部分である城の南側以外はすべて川と水堀、そして天然の湿地帯で遮断されています。すぐそこは海という河口と湿地帯に囲まれ、城外とは十分な高低差がある高台に築城されたのです。

「大阪市地盤高図」。大阪市HP「大阪市の浸水対策」より。現「大阪城」ですが上町台地が高台なのが分かります

「大阪府 治水のあゆみ」より・江戸時代の古地図ですが、三方が河川や湿地帯でした

大坂城の周囲は、南側にのみ地面が繋がっておりますが、ここには一辺が約2キロといわれる「総構」の土塁と空堀が東西に渡って構築されており、さらに南にある台地と大坂城を分断しておりました。
一般論を反映していると思しきWikipediaでは、この総構の空堀を甘く見た記述がされており大変残念でありまして。
空堀を決して甘く見てはいけません。大坂城の南側総構の空堀は幅約20m、堀底までの高さは約11mあり、かなりの防御力を保持しておりました。

土塁についても、石垣を張り巡らせた方がパッと見は堅強そうに見えますが、きれいに削りこんだ土塁は攻め手にとって足場がなく非常に登りにくいのです。その上に大きな重量のある櫓、たとえば多聞櫓のように幅があり瓦葺きの櫓を設置するならば頑丈な石垣が必要ですが、大坂城・総構の塀は銃眼を穿った(銃を撃つための)穴だけなので、土塁で十分な防御力を発揮できるのです。
実際、冬の陣(1614年)での豊臣方は、この総構の堀と土塁で、先鋒・藤堂高虎の軍勢を退却させていますし、越前松平忠直の軍勢も退けて、南側総構のすべての攻撃ポイントで完璧に守備。塀の内側には一兵も侵入させませんでした。

 

なるほど、突出した真田丸からの横矢があったから、総構がより強化された−−。そんなツッコミをされるかもしれません。

が、真田丸からの横矢による敵側面への攻撃は、せいぜい松平忠直勢の右翼を脅かした程度でしょう。
最も西に位置する伊達政宗の陣まで横矢の射程に入られるほど大坂城の総構は小さくありませんし、そのコンセプトであれば真田丸規模の構造物を総構のど真ん中にもう一つ築いてもよかったハズです。

このように豊臣時代の大坂城も「尾根伝い」に対して十分な防衛措置は取られており、現代人に指摘されるまでもなく弱点の補強は万全、むしろ強みにしていて、Wikipediaの書き込みのように空堀と土塁を甘く見た徳川方兵士たちがアリ地獄に呑み込まれていたのです。

 

大野治長たちの籠城策は弱腰でもなかった!?

なぜ、完璧な防御を誇る大坂城の外に、真田丸という砦を設置する必要があったのか?
それを考えるには、大坂城内での豊臣方首脳部や真田信繁たち浪人衆などの立場なども考察しておくのが肝要です。

大坂冬の陣が始まる前、大河ドラマでもありましたように後藤又兵衛基次や真田信繁などの浪人衆が、城から出陣して近江の瀬田などに陣を取り、先制攻撃を仕掛ける戦略を主張しました。

畿内の要衝で徳川方の大軍を迎え撃つには最適なポイントだったからです。

しかし、この計画は豊臣方首脳部によって却下されます。彼らにとっては浪人衆がいまいち信用できなかったというのもあるのと同時に、大坂城の守りに絶対的な自信を持っていたのでしょう。
大野治長などの豊臣家直臣たちは、信繁などの浪人衆と比較され、小説などではなんとな~く弱腰に語られがちです。そのため「大坂城で迎え討つプラン」はイマイチなんじゃないか? と、思う向きもあります。が、実は彼らも浪人衆と同じく主戦派です。
ただ、大野たちの目的は「豊臣家の存続」であり、戦で徳川家を徹底的に叩きのめすことではなかったのです。合戦はあくまで豊臣家存続に有利な条件を引き出すための手段でしかありません。

 

そういう意味では長期戦に持ち込める籠城は決して悪くはありません。特に大坂冬の陣ではその成功が豊臣方に有利になる理由がいくつか考えられました。
まず大きいのは、家康の寿命です。
もし戦いが何年もダラダラ続けば高齢の家康はいずれ死に、2代目・秀忠の時代になるでしょう(といっても既に将軍職は譲られていますが)。

秀忠の娘は大坂城の主・豊臣秀頼の妻として同城におります。そればかりか秀頼の母である淀の方と秀忠の妻・江の方は浅井三姉妹という血の濃い親戚関係でもあります。ゆえに豊臣家の存続は固いと踏んでいました。
後詰も期待できない豊臣が、この期に及んで徳川幕府をひっくり返して政権を奪取するなんて馬鹿げた考えは毛頭なかったでしょう。

 

城外に置いていた兵は真田丸だけじゃない

大野治長たちが馬鹿ではないことはわかった。
が、問題はある。そもそも大坂城は籠城戦に耐えられたのか?

これは少し時代を遡れば十分に結果が出ております。
大坂城の前身である石山本願寺がこの地で織田信長の攻撃に約10年も耐えたように、十分な蓄えと海からの補給があれば籠城できる実績があります。大坂城にはさらに外側に一辺2キロの総構も構築されており、石山本願寺時代よりも籠城戦に対応できる能力を保持しておりました。

また、朝鮮出兵時の苦しい籠城戦を耐えた加藤清正など、豊臣方諸将の経験が大坂城の増築時に活かされておりますため、城内で自給自足ができ、大軍を待ち構える拠点として十分な資格も兼ね備えておりました。
よって大坂城の防御力を頼りとして長期戦に持ち込み、和睦と破談をダラダラ繰り返しながら家康の死を待つというのは極めて現実的な選択の一つでもありました。

 

こうした条件を踏まえながら、いざ籠城戦となった時点で、豊臣方は大阪城外の要衝に配置していた砦群にも兵を置きました。

真田丸だけではないのです。
中でも最重要の拠点だったのが「木津川口の砦」で、ここは本願寺vs織田信長の石山合戦時代にも海からの補給路として毛利家の村上水軍と織田水軍が制海権を争った場所でもあります。
大坂城になってからも同様に、海からの補給路として大型船が城のキワまで入ることができる場所でもあり、最重要の地となっておりました。が、守将の明石全登(あかし たけのり)が大坂城での会議中に、徳川方の蜂須賀至鎮(よししげ)の軍勢によってあっさりと奪われてしまいます。

豊臣方の無能さや戦下手を印象付けるような結果−−。
と言えばそれまでですが、そもそも他に後詰が期待できない豊臣方にとっては、仮に木津川口の砦を保ったとしても、外からの補給は期待できません。
そんな理由からイマイチ防御に気合いが入らなかったのは仕方のないことだったかもしれません。ただ、残念なのは、木津川口の砦を単なる補給拠点としての位置付けでしか見ておらず、城外で敵をひきつける戦略上重要な拠点という見方までできなかったことでしょうか。
木津川口を奪われた後、同様に博労淵や福島、鴫野など城外の砦を次々と徳川方に奪われ、そして最後に残された城外の拠点が「真田丸」でした。

©富永商太真田幸村2

イラスト・富永商太

 

真田丸は幅180m 甲子園球場で118m

いよいよ本丸、いや真田丸へと参りましょう。

真田丸の構造についてはいろいろと云われていますが、実はハッキリとは分かっていません。
おい! いきなりお手上げかよ!
と思うかもしれませんが、冬の陣後に埋められてしまったので、遺構もほとんど残っていないのです。
しかし偉い人たちの最近の発掘調査で単なる城門を守る構造物でもなかったことが分かってきました。

一般的に真田丸は「馬出」のように云われます。馬出といえば、甲州流築城術に代表され、武田信玄家臣の山本勘助によって考案されたといわれる「丸馬出」が有名です。
城の中心であり弱点でもある城門を囲むように半円形の曲輪を城外で形成し、半円部分で寄せ手を撃退しつつ、両翼の出入り口から馬を出し、寄せ手の側面に打撃を与えるものです。攻守に優れた防御施設だっため、真田丸と聞いて多くの人が最初に思うのは、この甲州流の丸馬出だと思います。

真田丸お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20160101-7

写真は新府城の「丸馬出」と三日月堀。武田家最後の城で、縄張りは信繁の父・真田昌幸によるものと云われています。最大級の丸馬出ですが真田丸には遠く及びません

 

しかし、甲州流の丸馬出のイメージでいると、真田丸を見誤ります。逆に真田丸を甲州流の丸馬出のイメージでいると、甲州流築城術の「馬出」を見誤ります。
というのも真田丸は甲州流の馬出にしては、ありえないほど巨大、というかもはや馬出の規模を超えた構造物で「城」そのものなのです。
なんせそのサイズは従来の説でも東西180mで南北220mとされているほど。
※奈良大学千田教授の研究によりますと、東西180→220m、南北220m→280mという試算

たとえば甲子園球場ですとキャッチャーの位置からセンターのフェンスまでの距離が118m。東京ドームや福岡のヤフオクドームでも122mしかありません。サッカーのピッチは国際大会の規定で、広くても一方のゴールマウスから反対のゴールマウスまでの長さは110mです。
真田丸の長辺180mがどれだけの大きさは想像できたでしょうか。
巨大な馬出というよりもはやスタジアム。おっと間違えた。小規模な城なのです。

一方、甲州流築城術における馬出は、攻め手より少ない兵力でいかに効率的に守り、反撃するかに重点が置かれていますので、基本的にコンパクトな造りになっています。
真田丸のような馬出を造ってしまうと、兵力不足で隙だらけの馬出になってしまうのです。

 

では、真田丸のような巨大なものを真田信繁はなぜ作る必要があったのでしょう?
まず防衛の観点からいうと、一辺2キロの総構を守ると考えた時に、限られた兵力をいかに配置するかが問題です。
大坂城の南側の城門は4箇所ありますが、徳川方の攻撃ポイントが一辺2キロのどの辺りに重点が置かれるのか、また2キロに渡って全面で攻撃を受けるのかが分からない限り、兵の配置は流動的で定まりません。この時点で攻撃側に主導権を握られてしまいます。

戦ではいかに主導権を握るかが重要です。
戦略とは戦の主導権を握り、握り続けるための計画です。
一般的に籠城戦では攻城側に主導権が握られていますが、守備側は主導権をいかに取り戻すかを考えます。その方法の一つが「後詰め」です。背後に援軍を送り込むことができて初めて、攻撃側から守備側に主導権が移るのです。
では大坂の陣ではどうでしょうか。

イラスト・富永商太

イラスト・富永商太

 

守備側が主導権を握るためとにかく目立つ必要があった

大坂冬の陣では、残念ながら孤立している豊臣方に後詰めは期待できませんでした。
後藤又兵衛や真田信繁など豊臣方浪人衆の「城を出て隘路で待ち伏せて決戦!」という戦略は、後詰めのない中いかに主導権を握るかを考えた末、大軍の運用が難しい戦略要地での先制攻撃という内容でした。

しかしこれが却下された今、総構まで迫られることは必然です。ゆえに次なる戦略を考えねばなりません。
それが真田丸という超巨大な出丸の構築でした。
総構よりも突出した位置に、傍目にも目立つ構造物がある−−。そんな状況で攻撃側は当然無視など出来ません。
城門を守る程度の馬出であれば、徳川の大軍を惹きつけられませんが、突出した場所でしかも巨大な構造物で『こいつ、何かヤバい!』と思わせれば、攻城側は必ず排除に向かいます。そもそも要衝に城を構築するのと同じ理由です。
無視すれば背後や側面をやられるなと思うようないやらしい場所に城を構築することによって、敵を引き付けることができるのです。

 

また、戦国時代は敵兵の人数を把握するために出丸の大きさや構の長さ、枡形虎口の大きさなどでおおよその兵力を把握していました。
真田丸における信繁配下の兵数が実際どれぐらいの人数なのか。徳川方から見れば推測でしか分かりませんが、実際の数より多く見えた可能性は高いです。そういう目的も持った出丸なら巨大な方が都合がよいワケです。

このように攻撃側は必ず真田丸の排除に来ると分かれば守備側は戦略が立てやすくなります。まずは真田丸に兵力を集中すればよいからです。
相手の出方が分かった時点で主導権は守備側に移動。これが真田丸の役割の一つで、拠点陣地は相手を引き付けるものではなくてなりません。誰にも相手にされない魅力のないものではダメなのです。そういった意味でも真田丸は敵の目を引く巨大な構造物でなくてはならなかったのです。

いかがでしょうか。
真田丸が単なる大阪城の付属品ではなく、最前線の城の役割を持っていたことがお分かりいただけたでしょうか。

大坂冬の陣・布陣図/wikipediaより引用

大坂冬の陣・布陣図/wikipediaより引用

 

徳川家の黒歴史にハメる真田信繁の必勝戦術

真田信繁の戦術は、徳川方の先鋒を真田丸に引きつけて攻城戦に持ち込み、撃退したところで、退却する敵を追撃し、さらに本陣へと切り込む手順が考えられます。

これは信繁の父・真田昌幸が第一次(1585年)と第二次(1600年)の上田城攻防戦で徳川方を手玉に取った戦術です。
上田城の城外で徳川方を迎え討つふりをしながらあっさりと後退。上田城の三の丸から二の丸までを徳川方に簡単に通過させ、存分に油断させつつ、自らの軍勢は狭い本丸の大手門に集中し、別働隊に側背を突かせて大混乱を引き起こし、一気に反撃に出るという戦術です。

この戦術は城の本丸まで敵に攻めさせるため、相当な忍耐と訓練が必要です。真田昌幸は櫓でずっと碁を打っていたという逸話がありますが、総大将もこれぐらいの心の余裕と肝が据わっていないとできない戦術です。

大坂冬の陣では、どうだったのでしょう?
真田丸の城兵は、まず城外の真田丸付近にある「篠山(ささやま)」という小高い丘に陣取り、徳川方の先鋒到着を待ちます。
篠山の具体的な場所は判明しておりませんが、戦場全体を見渡せ、真田丸に迫る位置にあった小高い丘を豊臣方が無防備で放置していたとはちょっと考えられませんので、真田丸の外郭のような位置付けだったのでしょう。

 

血気盛んな若い兵士を罠にハメ、いずれ本陣を!?

徳川方の先鋒は前田利常率いる加賀兵でした。
このとき関ヶ原の戦いから15年も経ち、戦国時代を暴れ回った武将たちも代替わりして、大坂の陣が初めての実戦で血気にはやる若い将兵だらけです。
心配した家康の指示で前田の軍勢には鉄砲玉避けの竹束を用意させたり、塹壕や土塁を構築したりしておりました。

そんな中、篠山に陣取った真田の兵士が前田方に鉄砲を撃ち込んで挑発します。真田家にとっては使い古された挑発戦術ですが、前田家の将兵はこれに見事に引っかかります。
前田家家臣の本多政重(本多正信の次男)は篠山まで陣を進めました。が、真田家の兵士は既にもぬけの殻。戦の定石として小高い丘を占拠しておくことは、視界が開けて戦場の主導権を握れますので、通常、攻める側も守る側も丘の占拠に全力を注ぎます。

しかし真田家はあっさり放棄して真田丸まで後退します。
どこかで聞いたことのある後退ですね。そうです。真田丸にとっての篠山は、上田城にとっての三の丸や二の丸なのです。このようにあえて戦略要地を敵方に渡して、油断を与え、本丸に誘い込んで全力で叩くという戦術が真田丸でも見事にはまります。
城の造りに違いはありますが、さすが親子、コンセプトは同じですね。

 

すべては上田城の戦いを参考にした戦術展開だったことを考えると、この後、追撃戦に移り、敵本陣に迫って大混乱を与えるというのが真田ファミリーの必勝戦術です。
前田家の本陣のみならず、秀忠や家康の本陣を襲う計画も練られていたとしてもおかしくはありませんし、実際、はやる徳川軍の先鋒たちに壊滅的な打撃を与えました。その数、千を超えて相当数な死者が出たと目されています。信繁の目論見は大いに当たったのです。実際、彼はこの段階で大いに武名を上げたと言われています。

しかし! ここで信繁にとっては最悪の展開が待ち構えておりました。
豊臣方の首脳部が家康の和睦を受け入れてしまったのです。

真田丸は敵を引きつけ、多大な犠牲を払わせたという点では、拠点防御の役割を十分に果たしました。
しかし巨大な大坂城では所詮、局地戦の勝利でしかなく、豊臣方に圧倒的優位な条件をもたらすほどの戦果にはなりませんでした。

一方、徳川方は真田丸とは全く違う場所で大きな戦果を挙げていました。
それが徳川方の大砲による、大阪城の北側からの攻撃です。
現代でも大坂城の弱点は陸続きの南方だと信じて疑わない記述にあふれていますが、大坂城の本当の攻略ポイントを知っていたのは古今東西、徳川家康だけだったのではないか?と思うほど鮮やかです。

 

大坂城、本当の弱点はここだ!

基本的に最高指揮所である本丸は、最後の砦であり、ここをいかに守るかが縄張りの肝となります。この本丸を守るために十重二十重に郭や堀を巡らせます。

大坂城は黒田官兵衛、長政父子によって縄張りが施され、加藤清正などによって補強されたといわれています。
官兵衛が設計をミスったか、はたまた自らの天下取りのために弱点を造っていたのか、いや、長政が余計な追加をしてしまったのかと勝手に妄想してしまいますが、黒田官兵衛・長政の時代では間違いなく最高水準の築城です。

石山合戦時、最高の動員兵力と戦術、そして最新技術を導入していた織田信長でも、結局は退去を条件に盛り込んだ和睦で決着をつけ、落城させてはおりません。当時、最新鋭の兵器(火縄銃や鉄甲船)や戦術(火力の集中運用や水軍による制水権)をもってしてもかなわないのが大坂城の前身、石山本願寺だったのです。
そんな地の利に恵まれたこの地に、総石垣の巨大な城を築けばさらに防御能力は圧倒的になります。それが黒田官兵衛の設計による大坂城だったのですが、時代は移り、大坂冬の陣では官兵衛の時代に存在は知っていてもほとんど実戦で使用されなかった最新兵器が投入されました。

それが大砲(大筒・石火矢)です。
戦国期の大砲については、精度も飛距離も悪いので言うほどの威力はなかったといわれています。
確かにその通りで、狙った場所を狙えなかったり、野戦においても敵を威嚇する程度の兵器でした。さらに大砲は砲身が壊れやすく、何より運搬がとてつもなく面倒でした。

しかし、いかに精度は悪いとはいえ、視認できる位置に巨大な「的」があればどうでしょう?
三角関数を使って目視できない位置に撃ち込むことに比べれば遥かに容易いですよね。
この的にされたのが大坂城の巨大な天守だったのです。天守が見えれば「本丸はココです」と言っているようなものです。多少精度は悪くともその方角に向かって撃ち込めばいいわけです。
日本の戦国期と同じ頃、16世紀後半の欧州で大砲はすでに攻城戦に必須の兵器でした。これに対抗するため、欧州の城は城壁がどんどん厚くなり、城の天守も的にならないよう低くなり、終いには無くなっていきます。

 

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イングランド南東部のディール城。築城時期は日本の室町時代です

真田丸お城野郎ワンダーキャッスルジャパン20160101-9

ディール城は海を渡って攻めてくるフランスの砲撃に備えて築城されました。結局、実戦では使われませんでしたが

 

日本では、火縄銃が普及し、それに対して城も石垣や水堀で縦深を作るなどの対抗措置はできていました。

ただし、大砲の運用が遅かったため、これに対抗する防衛戦略が皆無。よって天守から1キロも離れていない備前島からの砲撃によって、直接天守が破壊されるという戦術に、大坂城は対抗できなかったのです。
北側にも十分な縦深を取れる曲輪や総構を延長していれば対応できましたが、築城当時は大砲による攻撃という発想がなく、河川と高石垣で十分に防御可能という判断のまま築かれました。

むろん、これは結果論に過ぎません。
当時、想定できなかったものに備えよというのは酷な話でしょう。家康が一枚も二枚も上手だったのは最新兵器の投入に躊躇わなかったことに尽きます。

 

ただ、そもそも大砲を最初に活用したのは、関ヶ原の戦い直前に西軍として大津城を砲撃した立花宗茂や西軍の総大将・石田三成です。豊臣方にその気があれば、最新兵器の研究はできたはずです。
また備前島まで徳川方に侵入された時点で勝負は半ば決していたでしょう。補給線としての役割はなくても河川から城のキワまで徳川方に侵入させないためにも木津川口の砦は死守するべきだったのです。

もちろん豊臣方も軽視はしてなかったのかもしれません。
しかし結局、拠点陣地は要衝にあるだけではダメで、運用者の能力に依るところが大きいのです。真田丸では勝利し、木津川口砦はあっさり奪われるというのは、防御力というよりも守将の能力でしょう。

本丸を砲撃され、もう和睦したいと淀の方に詰め寄られた豊臣家臣団は結局、不利な条件での和睦を受け入れてしまいました。豊臣家の中枢には「淀の方」という弱点がありました。戦に出たこともなければ初陣もしたことのない人間が、また外交交渉の経験もない人間が総大将(秀頼)の母だからという理由だけで口を出すのを認めてはいけません。

女が戦に口を出すなと言っているのではありません。
戦は戦のプロに任せるべきであり、外交もまた外交のプロに任せるべきなのです。
戦も知らない主人公が戦略・戦術に口を出すという昨今の大河ドラマ的展開をしてしまうと必ず滅びるのです。大河ドラマが一番歴史に学んでいないという皮肉な……おっと、ここまでにしておきましょう。

結局、優位を保った南側総構は冬の陣終了後に破壊され、続けざまに三の丸や二の丸の堀も埋められます。当然、真田丸も放棄したので、真田家得意の防御戦術も役に立たなくなります。

これが真田丸の全貌です。

イラスト・富永商太

イラスト・富永商太

 

ポイントだけまとめますと……。

①大坂城の南側は別に弱点じゃない
→空堀・堀切舐めると倍返しだ!

②真田丸はとにかく巨大なことに意味がある
→血気盛んな若い兵士を倍返しだ!

③大坂城の弱点はむしろ北側だった
→築城当時にはなかった大砲が普及し「技術はうそをつかない!」

と、ラストは「下町ロケット」になってしまいましたが、ともかく大坂城の弱点は「北側からの砲撃」というオチでした。
真田丸の記述も元々は「通常、城の弱点と言われる城門の強化のために~」という馬出をイメージしたものだったのが、何度も引用されているうちに伝言ゲームの要領で「大坂城の弱点である南側の陸続きの補強のために~」という解釈になってしまったのではないでしょうか。
かわいそうなのは大坂城の総構と空堀の扱いです。Wikipediaが編集されることを切に願います。
え? 自分でしろって?

 

2017年大河ドラマを先取り!
おんな城主・井伊直虎はなぜ女ながらに当主となったのか?
次々に周りの男たちが消えていく凄まじき生涯とは?

井伊直虎eye

 

筆者:R.Fujise(お城野郎)
武将ジャパンお城野郎FUJISEさんイラスト300-4
日本城郭保全協会 研究ユニットリーダー(メンバー1人)。
現存十二天守からフェイクな城までハイパーポジティブシンキングで日本各地のお城を紹介。
特技は妄想力を発動することにより現代に城郭を再現できること(ただし脳内に限る)。
※編集部より
R.Fujise(お城野郎)の日本城郭検定・二級合格証書を掲載させていただきます。
FUJISEさん城郭検定2級

 

 








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コメント

    • 島田風
    • 2016年 11月 12日

    まあ、あなたは、正常な考えの方です。
    真田信繁に、何で(幸村)と付けられているか、知っていますか?
    また、何で(6文銭)か?ご存知ですか?
    日本の歴史家と称する(既存の歴史家)方は、ためらいがあるのか?遠慮しているのか(口こもる)方々ばかりです。
    とりあえず、長くなるので、今回は、6文銭だけ説明しておきます。
    昔、あの世に逝った人の棺桶に(6文)を入れる風習がありました。
    真田の6文銭は、冥土の旅の(船賃)として、わたされました。
    歴史の嘘つきの(三羽ガラス)の一人だからです。
    毛利、嶋津があとの二羽です。
    鳰鳥は、舒明天皇にかかっている枕詞です。
    (息長・おきなが)にかかっています。
    舒明天皇の奥さんが斉明天皇です。
    斉明天皇を祖先にしているのが毛利です。
    鳰鳥は→かづく、にかかっています。
    かづくとは、現代の言葉で(モグリ)の事です。
    この業界で、あの人を知らないのは、モグリだ。
    モグリの医者だ。と言う使い方をします。
    真田は→真田紐で有名→紐の先→毛利、嶋津。
    これが日本の縮図です。
    イギリスでは、ミカンを薩摩と言います。
    薩摩は、当然、嶋津さんです。橘は、ミカンです。
    橘鳥は、ホトトギスで(他人の子宮に卵を産む鳥)つまり性犯罪者です。橘鳥→ぬばたま鳥→ホトトギス。
    早く話が、あの世の渡し舟の船頭さんが真田幸村さんです
    地獄渡しの船頭さんは、ことし6文銭のおじいさん!
    です。

    • 匿名
    • 2016年 11月 07日

    記事もぶれいずまんさんの見解も、なるほどと拝読いたしました。

    北側からの攻撃ですが、ぶれいずまんさんのおっしゃるように、また同時にお城野郎さんの
    精度が低かろうと本丸という巨大な的に当てればじゅうぶんという見方にもありますように
    家康がそれを決定打として攻撃していたかは怪しいのでは、と、素人考えですが感じました。
    北側が思いがけぬ弱点だった、という面もある一方、攻防の双方とも、実はそれほどそこが弱点云々とも思わなかった、
    という面も同時にあり得るような。

    武家としては当時の豊臣家はすでにさほどの脅威になるべくもない、でも大坂城という堅牢な巣に居座る存在で
    攻撃側からは「とにかく引きこもりを引っ張り出せば」、片や豊臣首脳陣にしても「生きのびられれば」が
    冬の陣時点の状況だったのでしょう。記事にあるように後詰すら期待できない上に頼るのは牢人ばかりの豊臣と
    全国の諸将を布陣する家康のどちらが天下を取っているかは豊臣方にも明らかだったはずで
    真田丸本編でも「急ぐ戦ではない」とあくび顔の家康と、どう見ても大黒柱不在の豊臣の寄せ集めぶりを見ていると
    うまく降参する口実を本丸への一発の砲弾として与えた家康とそれに飛びついた豊臣、という図が浮かびます。

    新選組!の時もそうだったのですが、義や忠や恩、父として息子としてという互いへのえも言われぬ思いの熱さや強さ、
    といういうものを重んずる人びとというのはなぜか
    真ん中ででんとして人を使っていた方ではなくて
    その真ん中のために命をかけ全身全霊を傾けた辺縁の者たちでした。
    そのドラマこそが美しく、観ていて人間というものを信じたり愛おしく思える。
    歴史ドラマには殊にその要素が大きいと思いますが
    真田丸はその中でも将来にわたり傑作の筆頭に上がり続けるのではないかと。

    真田丸の姿とは、という考察を記事やご投稿に見ながら、つらつらと、失礼いたしました。

    • 日本史大好き
    • 2016年 8月 17日

    真田幸村は、すごく頭の回転が早くて、城の場所は、その、戦略といっても囲んではないと思います。やっぱり戦国時代は、生きるか死ぬかのどちらかなので、仕方がないのでは?
    だヵら皆さんの意見も賛同します!!

    • 出張の時だけ城マニア
    • 2016年 1月 07日

    兼六園が防衛施設だったとは…
    さすが、お城野郎さんの記事はいつ読んでも興味深いです!

    北側からの大筒砲撃が弱点というのも納得ですね〜。
    (津本陽さんの真田任侠記に影響されてしまっているからかもしれませんが笑)
    心理戦を仕掛けた家康のうまさなんでしょうね。

    • 名無しの偉人さん
    • 2016年 1月 05日

    大坂の坂は土に返るから不吉だってんで大阪になったんでしたっけ?

    • ぶれいずまん
    • 2016年 1月 03日

    台地の陸続きの大坂城の南側が大きな弱点になっているのは間違いありません。

    それを補強する意味で巨大堀切が作られたわけですが、堀切というのは大きな問題点があります。それは曲輪間の連携が極めて取りにくくなるという弱点です。浅井氏の小谷城で巨大堀切を作ってしまったため、前後連携がとりにくく落城してしまった背景があります。これによりそれ以降は完全に分断してしまう巨大な堀切の数が減っていったとされています。

    大坂城の場合、巨大堀切は、防備には役立つものの、戦況によっては城から出て攻撃する場面が必要になる事もあります。巨大堀切がある事で、行動の自由が阻害される大坂城の南側が大きな弱点で、それに気づいた真田幸村が馬出を構築したと言ってよいでしょう。馬出、馬を出す場として、攻撃、防御両面で有益です。

    巨大な馬出に関する記述がありました。勿論、敵を引きつける、赤揃えもそうだと思いますが、目立つことにより意識される点があるかと思いますが、ただ、真田丸のあった場所が地形的特徴もあったと思います。真田丸をさら地から築城したと思っていては、間違っています。もともとこの地には巨大馬出を作るのに相応しい台地が残っており、それを利用したらこの規模になったと考える方が無難でしょう。

    大坂城の北側は大規模な軍隊の侵入は不可能で、大砲だけでは天守にある程度のダメージを与えることは可能でも、陥落させることは無理で、弱点とまでは言えないと思います。

    そこで私の結論としては、

    1.台地の陸続きの大坂城の南側は大きな弱点
    2.真田丸が巨大である意味はあるものの、地形をうまく利用したと言える
    3.北側から大規模な侵攻無理で、弱点とまでは言えない

    なかなか面白い指摘ではありますが、戦国時代の曲輪を単独で守る城郭技術から、安土・桃山時代の築城技術は、曲輪間の相互支援をどのように行うかに大きく進歩した時代と言えると思います。で、巨大堀切だけを作っておけば防御は完璧というのは、戦国時代の考え方ではと思います。

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