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飛鳥・奈良・平安時代 その日、歴史が動いた

藤原光明子 日本初で民間初の「アイドル」皇后誕生!

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天平元年(729年)のこの日、初めて民間人が皇后となりました。
彼女の名は、藤原光明子(こうみょうし)。
後に「この世をば わが世とぞ思ふ 望月の 欠けたることも なしと思へば」と結構傲慢な歌を詠んだ、あの藤原道長のご先祖に当たる人です。(厳密には、道長の先祖にあたる人の異母妹が光明子です)まあ、民間人と言っても美智子さまと違って「貴族」ではあるのですが、臣下が皇后になるのははじめてだったのです。

それまで、皇后は皇族の血を引いている人しかなれませんでした。
近親結婚が当たり前だったのです。
現代の感覚とぎょっとしてしまいますが、これは世界史的に見ても珍しい話ではありません。

三大美女として有名なあのクレオパトラも、旦那さんは自分の弟でした。
古代においては純血をできるだけ守るために、王族や貴族が近親者と結婚するのは普通のことだったのです。それに、親族の数が今よりもうーんと多かったということもあります。

そんな時代になぜ光明子が皇后になれたのかというと、なかなか黒い裏事情があります。
当時の天皇は聖武天皇。
奈良の大仏を建てたことで有名な人ですね。

この方の母親が、光明子のお父さん・藤原不比等の娘である藤原宮子だったのです。
つまり光明子と聖武天皇は、血筋から言うと叔母と甥の関係になります。
これまたびっくりしてしまいますが、生まれた年が同じなので年齢的には自然です。
宮子の生年はわかっていませんが、母親も違うので光明子とはかなり歳の離れた姉妹だったのでしょうね。

宮子は皇后ではありませんでした。当時は一夫多妻制や通い婚など複雑な結婚方式が併存しており、「妻」の中にも正妻にあたる「皇后」のほかに様々な種類の「妻」がいたのです。

ともかく、聖武天皇は半分藤原氏の血を引いていることになります。
「母親と同じ家の娘なんだから、血筋的に問題ないじゃん」というわけです。
アバウトなのか厳しいのかよくわかりませんが、そんな理由で光明子は皇后の座につけたのでした。

こうした経緯の政略結婚以外の何物でもない夫婦でしたが、この二人はなかなか良い関係を築いたようです。

聖武天皇が崩御された後、光明子は「天皇の遺品を見ていると悲しくて仕方がない。でも捨てるわけにもいかないから、どこかで保管しておきたい」と言うほどでした。
そこで遺品の保管場所に選ばれたのが正倉院。
歴史のテストでよく出てきたあの場所です。

授業で習っただけだと「校倉造(あぜくらづくり)。読めるか!」としか連想できないあの倉庫に、こんな泣かせるエピソードがあったんですね。

東大寺.正倉院.其二 - 無料写真検索fotoq
photo by polaristin
光明子自身も愛する夫の死から4年ほど後に亡くなりますが、先例ができたため、彼女の後も次々と藤原氏の女性が皇后になっていきます。
道長も娘を皇后にして権力を握った人ですから、今頃あの世で光明子に頭を下げているかもしれませんね。
ちなみに今年の正倉院展は10月26日からです。

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正倉院展のHP

 




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