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西郷どん特集 その日、歴史が動いた 幕末・維新

生麦事件~そしてイギリス人奥さんは丸坊主にされ、薩英戦争から友情が生まれる

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幕末の日英を揺るがした生麦事件

八重の桜をはじめ、ここ10年ほどは新撰組や篤姫など、幕末を取り上げた大河ドラマが多くなってきていますよね。

でも、歴史の授業で習っていて覚えていることといえば、ペリー来航(1853年)と戊辰戦争(1869年)くらい。
「幕末ってなんだかややこしくてよくわからない」
「あと、龍馬って確かこの時代だよね」
「うん、龍馬を暗殺したのは明智光秀だよね」
「そうそう、本能寺の恋!」

という人が多いのではないでしょうか(多くはないすね、調子のりました、ごめんなさいw)。

武家政治から議会制への転換、開国による西洋文化の受け入れなど、たった半世紀程度で世の中がすっかり変わってしまったので無理もありません。
無理やり例えるとしたら、今の日本で「明日からアフリカと同じ生活様式にするように!」というところでしょうか。

今日ご紹介する「生麦事件」はそんな最中の文久二年(1862年)の8月21日に起きた、外交問題に関する事件です。
ちなみに生の麦は関係ありません。生麦生米生卵も関係ありません、たぶん。「生麦村」という場所で起こった事件です。
今でも神奈川県横浜市鶴見区生麦として地名が残っています。

事件当時の生麦村/wikipediaより引用

この事件の名前を覚えている方は、「大名行列にイギリス人が土下座しなかったからキレられて殺された」という印象があるかもしれませんね。
それでだいたい合っているのですが、もう少し細かいいきさつが記録されています。

 

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渋滞中…「おっ、路肩走っちゃえ」→白バイ「死刑!」

まず、このときの行列を率いていた大名は島津久光(ひさみつ)。

既に薩摩藩主からは退いていましたが、当時の薩摩の最高権力者です。
この人が江戸へ行き、帰る途中生麦村に差し掛かりました。
大名行列のお通りですから、道行く人は全て土下座をして道を譲り、通り過ぎるのをじっと待っていたわけです。

しかしそこに、頭を下げるどころか馬に乗ったまま行き違おうという一団がいました。
これがチャールズ・レノックス・リチャードソンを始めとしたイギリス商人とその縁者四人組でした。
商売の合間に日本を見物しようと、川崎大師へ観光にいくところだったのです。
彼らはイギリス政府の役人でもなく、通訳もいなかったために悲劇が起きてしまいます。

小さな村の横を通る街道ですから、大名行列のような大人数が通れば道幅一杯。
しかしリチャードソン達は馬を下りるどころか、どんどん行列を裂くように突っ切り始めてしまいました。
おそらく、「前から何か大勢来るけど、うまく合間を通れば大丈夫だろう」と思っていたのでしょう。
そしてあろうころか、久光の乗った駕籠の真横を通り抜けようとしたのです。

これに対して、薩摩藩士たちはついにブチキレてしまいました。
まだ「斬捨御免」が通用する時代のことです。
容赦なくリチャードソン達に斬りつけ、無礼を正そうとしたのでした。

 

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女性は坊主の刑だった

結果としてリチャードソンは死亡、他二名が重傷、一人だけいた女性が奇跡的に無傷でした。(彼女は頭を剃られたので、それはそれでキツイ目にあったのですが)
彼女は大慌てで横浜居留地に戻り、救援を求めます。
重傷だった二名は当時アメリカ領事館として使われていた本覚寺へ身を寄せ、治療を受けました。

当然、イギリス領事達は大激怒。
しかし流石紳士の国というべきか、この時点ではまだきちんと事件の真相を質し、解決を図ろうとしていました。
開港など諸々の折衝を何とかうまく進めていきたい幕府としても、頭を抱えながら協力します。
一方周辺の市民はのんきなもので、「さすが薩州さま!俺達にできないことを平然とやってのけるッ!」と大喜びだったとか……。
いやはや、感覚の違いって恐ろしい。

 

紳士から海賊へ豹変のイギリス

この事件が本格的にヤバくなってくるのは翌年(1863年)からのこと。
イギリス公使の元へ本国から「幕府に謝罪と賠償金、薩摩からは犯人の引渡しと賠償金を寄越せと言え!」という指示が届きます。
さらに、幕府を脅すために横浜へフランス・オランダ・アメリカとともに艦隊を送りつける徹底振りでした。
「謝って犯人を出して、金を払うなら許してやんよ!ゴタゴタ抜かすと……」というわけです。前言を翻すようですが、汚いぞさすが海賊紳士汚い!
すったもんだの末、幕府は賠償金を払うことになりました。

もちろん薩摩にも艦隊が送られています。
「まずは話し合うけど、ゴタゴタ抜かすと(ry」という態度を両方へ見せたわけです。
が、こちらの交渉は激烈なまでに不調。
当事者だけで話し合うとうまくいかないのは、どこの国のどの時代でも同じだったようで……。

しかもその間に薩摩の船がイギリス艦隊に捕まるという事故が発生。
「開戦か!」
「一応艦隊用意したけど、幕府が金払ったんだから薩摩もそのうち折れるだろ」と思っていたイギリス側も、流石に砲撃されては黙っていられません。
「やんのかコラァ!」とキレ返し、薩英戦争が始まってしまうのでした……。
いったいここまでで何人が何回キレたんでしょうか。

イギリス艦隊と薩摩砲台の戦闘の様子/wikipediaより引用

この戦争は現在の鹿児島市街が焼き払われる、イギリス艦隊も旗艦艦長と副長が戦死するなど、多大な犠牲を払うことになります。
痛み分けとなった双方は再度横浜で話し合い、薩摩が賠償金を払うことで生麦事件の解決としました。
ちなみに、実行犯の薩摩藩士たちは「どこに逃げたかわからないからどうしようもありません。見つけたら処刑しておきますんで」ということで処罰を免れています。

 

元祖「ライバルと書いて友と読む」

このときの奮戦を見て、イギリス側は「幕府は腰抜けだが、薩摩ってヤツらはなかなかやるじゃねーか」と見直したのか、その後イギリスの役人が頻繁に薩摩を訪問するようになります。
薩摩藩も「やっぱり攘夷なんて無理だ、これからは外国に学ばなければ!」ということで両者は急速に親しくなっていくのでした。
ジャンプの漫画か夕焼け番長だかのように、殴り合って友情が芽生えたんでしょうか。
こうして、日本列島の南端から、技術的・人材的に倒幕への流れができていきます。

【TOP画像】国立国会図書館蔵

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参考:国史大辞典 生麦事件/wikipedia

 




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