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政宗が支倉常長を派遣したサン・ファン・バウティスタ号(復元)(宮城県HPより)

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その日、歴史が動いた 伊達家

支倉常長が慶長遣欧使節から帰国! 伊達政宗の狙いは国際クーデター計画だった!?

更新日:

元和六年(1620年)のあす8月26日、支倉常長慶長遣欧使節から帰国しました。

この人は伊達政宗の家臣で、ヨーロッパへ「はじめておつかい」に行っていたのです。

画・富永商太

画・富永商太

日本を出たのが1613年ですから、約7年間のお使いです。
当時はもちろん飛行機なんてありませんから、全て船旅。
太平洋を横断して現在のメキシコに入り、キューバを経由してスペイン・マドリードやローマまで行って帰ってきたという途方もない旅でした。
難破せず無事に戻って来られただけでも、常長は運の良い人だったといえるでしょう。

さて、そんな超長距離のお使い、何のためにやったのでしょうか?
表向きは当時覇権国家だったスペインと、日本との通商を開くためでした。
関が原と大坂の陣の間ですから、徳川家には時間的にも人材的にも外交に割く余裕はありません。

しかし、諸々の情報からすると外国と付き合いをしなければ、侵略されてしまうかもしれない。
正式な国交はまだ開かれていませんでしたが、ウィリアム・アダムズ(三浦安針)など漂着した外国人によって、世界情勢に関する情報はいくらか入ってきていたのです。

 

家康に代わっての使節派遣の真意は?

「世界は今植民地ブームですよ!日本はヨーロッパから遠いから今まで平気だったけど、スペインがフィリピンまで来てるから危ないかもよ!」と言われては、慎重派の家康も動かざるをえません。
そこで「ハイハイハイ!ウチがやります!!!」と名乗り出たのが伊達政宗だったのです。

この頃の政宗は一言で言えば大権力者。
仙台に居をかまえ、その石高は62万石で全国三位。
しかも江戸から近く、江戸や家康のいた駿府(静岡)とも積極的に行き来し、連絡を取ることができました。
自分の娘と家康の息子の結婚も成立していましたし、家康からも「お前とは親戚になったし、ワシの家の名字(松平)を使ってもいいよ」と破格の待遇を受けています。

徳川家康フルサイズ

何だかここまで恵まれるとちょっと薄気味悪い気もしますが、狸の家康ですから「お前にはこれだけあれば充分だろ?もう悪さしないように!」なんて思っていたのかもしれません。

しかし、それだけじゃ満足しないのがわれらが政宗。

何せ、ちょっと前(1600年)には「いくら三成が戦下手でも一日で決着なんかつかないだろうし、この機会に生まれ故郷の土地取り返そうぜ!」とあれこれやって失敗しているのです。
せめて家康にギャフンと言わせるか、それ以上のことをしなくては気が済みません。

そこで「それ以上」のほうを選んだ政宗、常長にこっそり手紙を託します。

「俺もキリストの教えを聞いて『これしかないな』って思ったんすよ。でもウチって今、家康さんとか色々あるじゃん? それで正式には受け入れられないんだ。でも東北ではガンガン広めたいと思っているんで、こいつら送るんで、そこんとこよろしく!できたら毎年、おたくらと貿易したいなぁ?どうよ?やるなら今でしょ」(五野井隆史『支倉常長』96頁から超意訳)

これだけだと一見問題ないように見えますが、実は大アリ。

何故なら、遣欧使節を送る前の時点で家康が「ワシの直轄地ではNOキリシタン!布教ダメ絶対!!」というお触れを出していたのです。
「主の前では皆平等だよ!」なキリスト教と、「ワシは天皇に代わって政治をするんだから、皆大人しく従うように!」という将軍が共存できないのは明白だからです。
特に家康は若い頃一向一揆で痛い目を見ていますし、この直前にも大久保長安という側近が死んだあとに「武田家復興の旗をあげ、キリスト教の軍勢を招き倒幕する」なんて計画も露見していますから、宗教で団結した人間がどれほど厄介かわかっていました。
最初は直轄地だけでも、それで収まらなければ全国でキリスト教を禁止するに決まっています。

政宗がそれを知らず、また予想できなかったはずはありません。
当コーナーではさんざんネタの代名詞扱いをしていますが、彼は秀吉時代から数々のピンチを機転で潜り抜けてきたツワモノですからね。
もっとも、それ以上にネタとしか思えない逸話が多いんですけd……おっと誰か来たようだ。

 

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徳川?へ?俺が次の将軍ですよ!

それでもそんな手紙を書いたのですから、これはもう「家康に心の底から従うなんてまっぴらゴメンだね☆」という意思表示と取らざるをえません。なにしろとある書状(筆まめの政宗はたくさんの書状を用意していました)には「政宗は次代の皇帝(将軍)となるべき最強の実力者」(小林清治『伊達政宗』)なんてこともさらっと書いているのですから。

さらに、使節に同行した宣教師のソテロがこんな手紙をスペイン王に送っているのです。
「今日本を治めてる家康と秀忠はNOキリシタン!(ryだけど、政宗って人は布教OKしてくれるみたいだし、キリシタンと一緒に家康を倒したいって言ってました!どうしましょう?」

ここまでくるとこの宣教師のホラなのか、残念ながらわかりません。ただ、前述したように大久保長安による外国勢を招いたクーデター計画なんてものもあったことを考えると、全く想像とは思えません。

政宗のことですから、ソテロに「書き残すとバレたとき困るから、口頭でな!」なんて言っていたかもしれませんし。

政宗が支倉常長を派遣したサン・ファン・バウティスタ号(復元)(宮城県HPより)

政宗が支倉常長を派遣したサン・ファン・バウティスタ号(復元)(宮城県HPより)

ちなみにこれらの手紙が世に出たのは、明治時代以降のこと。
倒幕はできませんでしたが、隠蔽は無事成功したんですね。

この他にも、政宗には野心を窺わせるエピソードが絶えません。
例えば、政宗の家臣に鈴木元信という滅茶苦茶経理に強い人がいるのですが、この人は「ウチの殿様が天下取ったら、法律はこうしてこうしてこうしよう!!」なんて案を考えています。
殿様にその気がなかったら、家臣だってこんなこと考えませんよね。
流石に亡くなる直前に諦めたようで「幕府にバレたらまずいから、焼いとこう」と処分しているのですが。
ちなみにそれが江戸幕府成立後の話。
すごく……ギリギリです……。

ドラマや小説だと、「関が原以降は大人しくなったよ」とされている政宗ですが、真相はどうだったのでしょうね。

 

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むくわれない常長の使命は400年後に開花

あっ、よく見たら、今回の主役は支倉常長でしたね。
常長は帰国した時には、案の定、仙台藩もキリスト教禁教中!
ヨーロッパでは大歓迎されたものの通商の交渉は失敗!
失意の常長は、2年後に52歳で病気で亡くなりました。アーメン・・・
空しき大航海・・・
しかし、しかし

それから21世紀。そう今年の6月です。

常長の持ち帰った遣欧使節資料がユネスコの世界記憶遺産に選ばれたのです!

400年後になってようやく報われたのでした。

金のロザリオ(仙台市博蔵)瑞鳳殿HPより

金のロザリオ(仙台市博蔵)瑞鳳殿HPより

それにしても政宗さん、冷たくないっすか。

しかし、しかし、しかし

それから20世紀(1974年)のこと
政宗のお墓(霊廟)「瑞鳳殿」(仙台市)が修復のために発掘調査したところ、遺体とともに、なんと輸入製の金製のブローチ(ロザリオ)が見つかったのです!

これは一体なんなのでしょう?

一説には常長が持ち帰ったお土産だったとも言われています。
全国的な禁教下で、もろ手をあげての凱旋帰国とはなりませんでしたが、政宗はちゃんと胸の中へ、常長の努力を認めていたんですね。うーん、さすが政宗。

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参考文献




1位 意外と優しい!? 織田信長さん


2位 伊達政宗さんは史実も最高!


3位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


4位 毛利元就の中国制覇物語


5位 ホントは熱い!徳川家康



6位 最上義光 名将の証明


7位 最期は切ない豊臣秀吉


8位 史実の井伊直虎とは?



9位 もしも戦国武将がサッカー日本代表だったら?



10位 小野政次 34日間の天下



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