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藤堂高虎/wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた 諸家

戦国の転職王・藤堂高虎 その姿は現代社会でも働く男たちの理想なのか!?

更新日:

 

条件次第で転職はJK!を体現した藤堂高虎

転職は今でこそ珍しくなくなりましたが、一昔前まではあまり良いイメージがありませんでした。
「新卒で入った会社に定年まで勤めるのが常識」というのは、江戸時代の「一度仕えた主君に最後まで尽くすのが忠義」という考え方と少し似ていますね。
が、それは江戸時代半ばあたりに儒教が広まってからの話で、三代家光のあたりまでは「ちょっとでもいい条件のとこで働くほうがいいに決まってんだろJK」な実利主義のほうが主流でした。
今回の主役はまさにそれを体現した人です。

寛永七年(1630年)の10月5日、戦国の転職王・藤堂高虎が亡くなりました。

弘治二年(1556年)生まれですから、満74歳となかなかの長寿です。
その間に仕えた主君が滅亡すること四回。
彼自身は有能な人物に間違いないのですが、見方を変えるとかなりのサゲ武将っぷりといえなくもありません。

藤堂高虎/wikipediaより引用

 

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浅井家から豊臣家へ 主君が死亡で高野山

高虎が最初に仕えたのは、信長の義弟・浅井長政でした。
この頃の藤堂家は一応武士ではあったものの、ほとんど農民と同じような状態だったそうなので、一兵士同然のところから成り上がっていったのでしょうね。
長政が滅びた後は、旧浅井家臣の家を渡り歩きます。

そして信長の甥っ子・津田信澄(のぶずみ)のもとへ。
これが、ウマが合わなかったらしく天正九年(1576年)には秀吉の弟・秀長のところに腰を落ち着けています。
高虎が出て行った後、信澄は本能寺の変のとばっちりで殺されてしまうので、ナイス回避といったところでしょうか。

高虎は秀長の下で四国・紀州・九州を転戦し、武功を上げていきました。
秀長も高虎を重用し、気前よく名馬を与えたり加増もしています。
ここでやっと「この方こそ!」と思ったのか、秀長の養子・秀保(ひでやす)の後見役も果たしました。
秀保とも仲が良かったようで、彼が17歳という若さで病死した後、高虎は高野山に上って出家してしまいます。
秀保には「殺生関白秀次と一緒に、秀吉に逆らおうとしたんじゃないか?」と疑われて殺された……なんて説もありますが、はてさて。
秀長も50歳で亡くなっていますし、優秀な主君の夭折を二回も目の当たりにした高虎が、菩提を弔いたくなったとしてもおかしくはないですね。

 

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ボケた秀吉に愛想を尽かす? 家康のもとへ

が、そんな美しい主従愛に水を差してくれるのがボケの酷くなり始めた太閤・秀吉です。
「お前みたいな優秀なヤツが坊主になるなんて認めない!宇和島に領地をやるから帰って来い!!」と半ば強引に復帰させられてしまいます。
秀吉空気嫁。

このときの無茶振りのせいか、高虎は秀吉が死ぬより前に家康へ接近しています。
高虎の生涯で唯一「主君が死ぬ前に鞍替えした」のがこのときです。
愛想が尽きたのか、無理やり還俗(出家した人が俗世に戻ること)させられたのが余程ムカついていたのか……両方でしょうか。

そして関が原の戦いでは、脇坂安治たちへ「徳川殿についたほうがのちのちいいんじゃない?三成嫌いでしょ?」と誘いかけたり、当日は大谷吉継隊と戦ったりと大活躍しました。
その後の結果はご存知の通り。
もし高虎がずっと高野山にいたら、小早川隊以外の裏切りはなかったかもしれないということですね。
秀吉が空気読んでればよかったのに、あーあ。

津城跡に建てられた藤堂高虎の銅像/wikipediaより引用

 

ワシが死んだら殉死しようと思ってる人、手を挙げて

その後は徳川家にずっと仕えました。
得意の築城技術を生かして、宇和島(現・愛媛県宇和島市)に、海水を引き入れた五角形の堀を巡らせた宇和島城を作ったり、関が原の余波を食らってリア充※が爆発した安濃津城(現・三重県津市)を修繕したりしています。
※リア充については過去記事「俺の嫁がこんなに強いはずはなくはない【その日、歴史が動いた】」をご参照ください。

家康は身内に厳しく、譜代を重用し、外様は基本冷遇というスタンスを取っていますが、高虎と政宗の二人についてはいろいろと破格の扱いをしています。
東北のネタ王の話はまた時期を改めてするとしまして、高虎については関が原での活躍や築城技術、大阪の陣では一族を犠牲にするほどの奮戦振りなどを評価していたのでしょう。

また、高虎は機を見るに敏というだけでなく、周囲の人間への気遣いや公平さも人並みはずれていましたので、「こういうヤツは使える」と思っていたのかもしれません。例えば……

・藤堂家から出て行く家臣を快く見送り、「もし上手くいかなかったら同じ給料でまた雇ってやるから、いつでも来い」と言って本当に実行した
・加藤嘉明(小さい頃からの秀吉家臣。福島正則や加藤清正と同じ釜の飯を食った仲)と仲が悪かったものの、自分より高給の領地に「加藤殿が向いてますよ」と推した
・死の直前、家臣に「ワシが死んだら殉死しようと思っている者は、名前を書いて提出するように」と命じ、名乗った人々を家康に報告して「こいつらは本当の忠義者だから、いなくなられると困るので殉死しないように言ってやってください」と書状を書いてもらった

というように、「アンタ本当に戦国時代の人間か?」と言いたくなるほどの公正振りですから。
現代に置き換えるとすれば、「七回転職に成功し、上司に認められ部下にも思いやりがある敏腕部長」といったところでしょうか。
こんな上司がほしいものです。

 

幕末に津藩が寝返ったのは事実でありますが・・・ 

その後儒教が広まった後の人々にはこうした深イイ話がわからなかったのか、聞こえないフリをしていたのか。
「不忠義者」、「変節漢」、「浮気性」、「我ら忠犬を見習え」(by譜代大名)などなど、ヒドイ言われようをされるようになってしまいました。

挙句の果てに、幕末には彼の子孫に対して「藩祖の教えがよく行き届いていることよwwwwww」なんて皮肉られる始末。
津藩が幕府軍から倒幕軍に寝返ったのは事実ですが、それ高虎関係なくね?

それに、裏切ったとはいえ津藩は日光への攻撃は拒否しています。
「藩主が大恩を受けた人のお墓荒らすなんてできません」というわけです。
家を残すことを第一に考えて裏切ったものの、礼儀はちゃんと尽くしたんですね。
それに比べれば、関が原で散々働かせた相手を改易しまくった徳川家のほうが極悪な気がしますけどウォッホン。

 

締めるところは締め、その他はテキトー主義 

高虎は晩年目を病んでいて、死去するときには既に失明していました。
そのせいか、辞世の句や遺言の類が伝わっていないようです。
代わりに?「藤堂高虎家訓200箇条」なんて読むのも疲れる……もとい、ありがたい教えを残しています。
ぴったり200条でも言いたりなかったのか、4条ほど付け足しているあたり心配性なのか、マメなのか……。
この「締めるところは締め、その他はテキトーに」主義が彼の一番の強みだったのかもしれませんね。

他にも高虎には「身長六尺二寸(約190cm)体重三十貫(約110kg)の超巨漢だった」などなど、エピソードが多いので、興味のある方はぜひ一度調べてみてください。
それでも「裏切り者」以外でネタ扱いされないあたりが、一番彼の性格を現しているのではないでしょうか。

長月 七紀・記

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参考:http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2008/07/post_a925.html
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E8%97%A4%E5%A0%82%E9%AB%98%E8%99%8E
http://ja.wikipedia.org/wiki/%E5%AE%87%E5%92%8C%E5%B3%B6%E5%9F%8E

 




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