開国したことにさせられた井伊直弼がガチギレ! 安政の大獄はじまる

 

歴史上、「井伊の赤鬼」と呼ばれる人物が二人います。
一人は初代彦根藩主・井伊直政。赤備え(具足を全部赤色で揃えた軍)であること、そして士気がとても高く勇敢な将であったことからそう呼ばれました。
軍事だけでなく、関が原の後は西軍側の大名との交渉を受け持ったり、家康と唯一アッー!な関係になるほどの美形だったなんて話があるほど、とにかく色んな面でデキた人です。

さて、今日の主役はもう一人のほう。
幕末に悪名高い(そして必ず暗記させられる)「安政の大獄」を断行した井伊直弼(なおすけ)です。おそらく大多数の人が「ああ、あの桜田門で暗殺された人ね。よほどワルだったんでしょ?」と思っていることでしょう。
確かに安政の大獄はムチャ振りとしかいいようのない暴挙でしたが、彼にも一応事情があるのです。

なお、2017年大河ドラマ『おんな城主 直虎』の放送により、「井伊直虎と井伊直弼はどんな関係なのか?」と疑問を寄せられる方も多いと聞きます。
最初にご説明申しておきますと、井伊直弼は、直虎の親戚の子孫です。
親戚とは井伊家24代宗主の井伊直政でありまして、直政が滋賀県に彦根藩を開くことによりその血が受け継がれ、36代となる直弼へと続くのであります。
頭の片隅に置いといていただければ。
この場合の親戚は……直虎の父・直盛のイトコにあたるのが直親(井伊23代宗主)。その息子が直政となります。

悪名高い井伊直弼さんですが、果たして真相は…/wikipediaより引用

悪名高い井伊直弼さんですが、果たして真相は…/wikipediaより引用

 

井伊の決断「黒船さんをお・も・て・な・し」

安政六年(1859年)の10月7日、井伊直弼が安政の大獄により多くの攘夷派(開国反対派)を捕らえました。これは、そもそもペリーとハリスが「か・い・こ・く・し・ろ」と脅しをかけてきたことが発端です。
手紙や使者でなく、担当者が目の前に来ているわけですから、当然返事を急がなくてはいけません。

しかし、度重なる災害や将軍の後継者問題でしっちゃかめっちゃかになっていた幕府に、正しい判断を即座に下せるような人物はいませんでした。
鎌倉時代から数えて600年以上も武家が政治をしてきたとはいえ、幕府はあくまで「天皇と朝廷から政治を任されている機関」です。ですから、こうした国の大事にはまず朝廷へお伺いを立てるべきでした。

でも、目の鼻の先に最新鋭のデカい船を突きつけられた幕府はパニックに陥ってしまい、この一番大事なポイントをおろそかにしてしまいます。

一応、堀田正睦(ほったまさよし・老中の一人)が京都へ向かうものの、そう簡単に勅許(天皇直々の許可)が出るわけはありません。何せ当時の天皇・孝明天皇(和宮のお兄さん)は大の外国嫌いで、そもそも海の見えない京都にいますから、貴族やそっち寄りの大名も右に倣って「開国なんぞしてたまるか!」という意見です。

しかしハリスの催促は止みません。
こうした中で直弼は老中の職に就きました。

 

朝廷無視の開国には反対していた

教科書では「新しく老中になった直弼は、一人で強引にハリスの求める条約を結びました」となっていますよね。

しかし、実は彼は最後の最後まで「朝廷の許可がないとやっぱりマズいですよ。事情を話して、もうちょっと待ってもらいましょうよ」と反対しているのです。

それを押し切って条約を結んだのは、直弼ではなく松平忠固(ただかた)という別の老中でした。
この人はハリスの「早くウチと条約結んで開国しないと、イギリスが攻めてきて無理やり植民地にされちゃうかもヨ? 清みたいになりたくないデショ?」なんて脅しを真に受けて、調印を決めてしまうのです。
一応「早く条約結んだほうが、こっちに有利になるかもしれない」と考えていたようですが、残念なことにこのとき結ばれた日米修好通商条約はバリバリの不平等条約でした。あーあ。

これに呆れた直弼は、将軍の跡継ぎ問題で敵対していた人と協力してまで、忠固と正睦を免職に追い込んでいます。
「朝廷の許可もらえなかったら、幕府が勝手に開国したことになるじゃねーか!誰も納得してないし得したのメリケン(アメリカ)だけってどういうことだよ!責任取れ!!」というわけです。

ここだけで済めばまだマシだったのですが、いかんせん老中として新参の直弼には、あまりにも味方がいませんでした。
いつの間にか「勝手に開国したのは直弼だ」と責任を押し付けられてしまい、攘夷派の大名や学者たちがこぞって直弼を非難します。
島津斉彬(なりあきら・篤姫の義理のお父さん)なんて江戸まで兵を率いて来ようとしたほどです。
途中で亡くなってしまい頓挫するのですが、もし生きていたら江戸が戦場になっていたかもしれません。怖ッ!

強気で開国を迫ったハリス/wikipediaより引用

強気で開国を迫ったハリス/wikipediaより引用

 

責任を押し付けられて我慢は限界

しかしそれだけでは済みません。
朝廷まで「悪いのは井伊だ」と信じ込んでしまい、「水戸藩、お前幕府のお目付けの癖に何やってんだ!早く幕府をまとめて何とかしろ!」という命令を出すのです。

本来であれば、幕府を通して命ずるのが筋。
が、朝廷としてはもう幕府を信用する気が失せ始めていたので、直接水戸藩へ話をつけたのでした。
水戸藩は家康の方針で「お前んちは将軍になっちゃダメだけど、代わりに将軍に相応しい人物を選ぶ特権をやる」ということになっていたからです。

この時の命令には「何とかしろ」としか書いていませんが、最終目的としては「朝廷に忠実な新しい将軍を選んで、外国を追い払え!!」と言いたかったのでしょうね。そりゃ幕府に内緒でやらないといかんわけです。

これを知った直弼、もはやここまでと覚悟を決めます。
「一度幕府を立て直すためには、攘夷派を片付けないとどうにもならん。大名や幕臣だけじゃなく、民衆を煽る学者どももじゃ」と考え、逮捕・処刑を実行したのが安政の大獄です。
なんせ、当時の攘夷派は「天皇がイヤだって言ってんだから開国ダメ絶対!」と主張するだけで、具体的にどうするのか考えてもいません。

ここに吉田松陰のような「幕府を倒せば朝廷に権力が戻って何とかなる!!」という人々が合流してしまい、最早話し合いではどうしようもないところまできていました。
そこであまりにも事態の解決を急ぎ、武力で弾圧したために直弼は悪い意味で「赤鬼」と言われるようになってしまったのです。

 

弾圧VSテロ

もっとも、強引だったのは攘夷派も同じ。
吉田松陰は捕まったときに「老中を何人か暗殺するつもりでした!」なんて言ってますしね。暗殺の後どうするつもりだったんでしょうか。
しかもそこで止めておけば「自供したから流刑でいいよね」ってことになったのに、自分から「こんな奴死罪でしょJK」とか言っちゃうもんだから、直弼も「そうかそうか、お望み通り首刎ねてやんよ!!」とキレてしまったのです。

松陰の教えの中に「死して不朽の見込みあらばいつでも死ぬべし、生きて大業の見込みあらばいつでも生くべし」(意訳:志が後世に残るんならいつ死んでもいいし、デカイことをやれるチャンスが残ってるなら生き延びろ)というものがありますので、このときは「もうバレたから巻き返すの無理だわ。あとは弟子達に任せた!」なんて気でいたのかもしれません。

もし安政の大獄がなく、攘夷派が力を持ったまま時代が進んでいたらどうなったでしょう?
幕府が倒れるだけならともかく、あっちこっちで下関戦争や薩英戦争のような対外戦争が起きていた可能性もなくはないですよね。
そうなったら日本全体が侵略されて、植民地になっていたかも……gkbr。

こう考えると、直弼のやったことは強引ではありましたが、悪いことだったとも言いきれないのではないでしょうか。
いますよね、「やってることは間違ってないんだけど、キミそのやり方はどうなの?」っていう人。
直弼はそういう不器用なタイプだったんじゃないか……というのはひいき目すぎますかねえ。

長月 七紀・記

参考:http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2006/10/post_5d88.html

 

 


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コメント

    • 匿名
    • 2016年 8月 19日

    この後の桜田門外の変は、史実の様な美談ではなく、実は地獄絵図であった。
    血の気の多い水戸や薩摩の浪士達が直弼を一思いに殺すとは思えないからである(特に水戸は最も苛烈な仕打ちを受けたから、なぶり殺しにしなければ気が済まない程)。
    事実:直弼をCOLT銃で狙撃(直弼の腹部~大腿部に命中)→乱戦→引き摺り出して即打ち首。
    実際:直弼をCOLT銃で狙撃(ハズレ。命中精度の悪い銃で雪の中。しかも遠距離、当たる訳がない)→乱戦(この時に稲田重蔵が二刀流士河西忠左衛門に斬殺→怒り爆発させた海後磋磯之介が河西忠左衛門をバラバラに惨殺)→直弼は籠から引き摺り出された後、殴る蹴るの暴行加えられ、小便かけられ、手足切り落とされ(即ちダルマ)鼻、耳、舌を削がれ、目を抉られ(更には益子金八が直弼の腹裂いて肝臓引きずり出して食べた話も)→全員で滅多突き→有村が打ち首。
    因みに直弼は情けなく命乞いしたと言う。
    その後は有村は、目と鼻と耳のない直弼の首を高々と掲げてから首を地面に叩き付け、踏みつけた挙げ句にサッカーボールの様に蹴ったと言う。
    逃げようとした有村はその後、死んだふりをした小河原秀乃丞に斬られ、激昂した有村は小河原の心臓抉り出し、血を飲み肉を食べ、雄叫びをあげた程であるから如何に凄まじかったか。
    その為に史実が美談に脚色され、今日まで伝わった様。
    海後磋磯之介と益子金八の二方は明治まで生き、海後は20世紀まで生き、何も語らずこの世を去ったのは事件が凄まじかったからである。
    最後だが、直弼の評価としては。
    老中前:日本のダヴィンチ(多彩な芸術家)。
    老中就任後:日本のクロムウェル(強権奮った腰抜け独裁者)。
    以上であります。

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