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イラスト・富永商太

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その日、歴史が動いた

真田幸村が幽閉先を脱出、いざ大坂の陣へ【その日、歴史が動いた】

更新日:

 

「好きな戦国武将は?」と言われて、まず間違いなくランクインする人といえば真田幸村。

「幸村」という名前は江戸時代の軍記物語「難波戦記」で広まったのでは?という説もある通り、本名ではありません。
大坂城に入ってから改名したんだという浪漫あふれる説もありますね。
少なくともそこまでの名前は「信繁」だったのですが、わかりやすいので「幸村」で統一します。

慶長十九年(1614年)の10月9日、真田幸村が蟄居(謹慎)場所だった紀伊(現・和歌山県)の九度山を脱出し、大坂城へ向かいました。
大坂冬の陣の戦闘が始まる1ヶ月ほど前のことです。
意外と余裕を持って?入城していたんですね。

何で謹慎をくらっていたかというと、原因はご存じ、関が原の戦い。
関東方面での局地戦の一つ・上田城の戦いで幸村は父・昌幸と共に奮戦し、後の2代将軍・秀忠を本戦に遅刻させるという活躍を見せました。
しかし、三成が一日で負け、総大将の毛利輝元も「ウチ元々天下狙うなってじーちゃん(元就)に言われてましたしおすし」とあっさり大坂城から退いてしまったため、真田親子の働きは骨折り損のくたびれ儲けになってしまいます。
しかも家康からは「お前らの働きがすごいことは認めるけど、そっち側が負けたんだから切腹な」と命じられました。

本多忠勝も助命嘆願?

が、ここで真田の家を守るため、一人だけ徳川方についていた兄・信之が父と弟の助命嘆願に動き、舅の本多忠勝も口ぞえしてくれたおかげで二人は助かります。

忠勝は、このとき「もし真田父子をどうしても切腹させると言うなら、殿と一戦させていただきますが?」とまで言ったとか。
もし忠勝一人が寝返ったところで、戦となれば家康が物量・兵力で勝るのは明らかですよね。
家康がこの言を受け入れたのは、譜代の臣である忠勝が離反することによって、まとまりかけた結束が乱れることを避けたかったからでしょう。
もちろん、忠勝を手放したくなかったというのもあるでしょうが。このエピソードも浪漫あふれていいよな~。。。

蟄居中はなかなか厳しい暮らしだったようで、信之からの仕送りや細く織って作る「真田紐」を売って生計を立てていたとか。
時の権力者を苦しめた武将親子が内職して暮らしてた……というとなかなかシュールですね。
この紐はそれまでも存在していたのですが、商人が「あの真田親子の作った紐だよ!ご利益あるよ!強くて頑丈だよ!!」と宣伝したため、真田紐と呼ばれるようになったのだとか。
考案したのは幸村の奥さん・竹林院(大谷吉継の娘あるいは姪っ子)という説もありますね。

真田父子が住んだ屋敷跡にたてられた真田庵

真田父子が住んだ屋敷跡にたてられた真田庵

老年だった昌幸にはこの暮らしが堪えたのか、たびたび「もう戦しないから上田か江戸で静かに暮らしたいんだけど、家康に渡りつけてくれない?」なんて手紙を信之に出しています。
が、許しが出ることはなく昌幸は慶長十六年(1611年)に亡くなりました。
幸村はというとあまり気にしていなかったのか、それとも後々のことを計画していたのか、九度山暮らしの間にちゃっかり子供を作ったりしています。
逆らった罪で謹慎させられてるのに、なかなかの度胸です。
とはいえ、昌幸の死後には出家して「好白」という僧としての名前になってはいたので、これで「もう戦をする気はないですよ」とアピールしていたのかもしれません。

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無名すぎて大坂城へまさかの入城拒否?

が、豊臣家と徳川家の仲が再び冷え込んだことにより、事情は変わります。
「今度こそ徳川との決戦になるかもしれない」と考えた豊臣家は、あっちこっちの浪人(大名家に仕えていない武士)へ「今ウチに来れば領地あげるよ!(※ただし勝った後ね)」という手紙を送ります。
物理的に近い幸村のところにもお誘いが届きました。
しかもかなりの大金つき。
生活に困っていた幸村としては、これだけでも有難かったことでしょう。
……生活苦しいのに子供ぼんぼこ作ってるあたりが何というか、ツッコみたくて仕方ないんですが。

徳川から許されて自由の身になる望みは薄く、それに比べて豊臣では厚遇してくれると言っている。
勝つことが大前提とはいえ、賭けるとすれば後者の方が分があるように思えたのでしょうね。
それに武士としては、父のように一度は天下に名を轟かせてみたい。
幸村は奥さんを置いて、九度山を脱出することを決めました。
脱出の経緯については、「村人を酔わせてその隙に逃げた」とか、「夜中にこっそり抜け出した」とかいろいろ説があります。
無名であったことがかえって良かったのでしょうね。
この時点で昌幸と同じくらい有名だったら、そうそう脱出なんてできなかったでしょうから。

そして無事大坂へ着くのですが、怪しまれて手紙の差出人・大野治長の家を訪れてもなかなか会わせてもらえません。
当時「真田」といえば昌幸のことでしたし、本当に病死したのかどうかが疑われていたくらいですから、名乗っても取り合ってくれなかったのです。
そこで山伏の姿になり、「祈祷させてもらえませんか」と言ってようやく通してもらえたとか。

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幸村というと華々しい戦ぶりが有名ですが、そこまではこんな苦労もしていたんですね。
長月 七紀・記

 




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