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その日、歴史が動いた

四国統一!長宗我部が頂点に達する(その後、奈落の底へ)【その日、歴史が動いた】

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斉藤道三や豊臣秀吉のように一代で成り上がる者がいれば、当然その逆に転がり落ちていく者もいます。
寂しい晩年で済めばまだマシなものの、自暴自棄になってしまう人もいました。
今日はそんな激動の一生を送った人のお話です。

天正十二年(1584年)の10月19日、土佐の長宗我部元親(ちょうそかべもとちか)が伊予(現・愛媛県)を攻め落とし、四国をほぼ統一しました。
おそらくこの時が元親個人にとっても、長宗我部家にとっても最も輝いていた時期だったでしょう。

その後のお話は
過去記事「センゴク」ネタバレご勘弁 仙石秀久が九州の地に降り立ち、逃走す!【その日、歴史が動いた】
でご覧いただくとしまして、今日はここまでの元親の軌跡を。

また、4コマ漫画でもとりあげていますのでよろしければどうぞ⇨「変人は変人を知る!? 四国の覇王・長宗我部元親は信長級の傑物! 『戦国boogie-woogie』vol.34」

ブギウギ長曾我部1

 

鎌倉以来のながーい名前の名門

長宗我部氏は平安末期から鎌倉初期に土佐入りしたと言われている古い家柄でしたが、元親の父・国親が子供の頃、一度城を追われてしまっていました。
その後、戻ってきて盛り返すのですが、国親は志半ばで病死してしまいます。
土佐と四国を勢力下に置くことは、父親の代からの悲願だったのです。

まず元親は土佐を完全に掌握するべく、策を練ります。
土佐は温暖な土地ではありましたが、資源が少なく豊かとはいえません。
豊かでない国をいくつもの家が分割していたところで、いずれ中央の有力者に切り従えられてしまいます。

それを象徴するかのように、元親が土佐統一に乗り出したときには織田信長が桶狭間の戦いで勝利を収めていました。
「やり方によっては寡兵でも勝てる」ということが実証されたわけです。
しかも信長は元親のたった5歳上。
同じことができないはずはない、と意気込んだことでしょう。

司馬遼太郎の「夏草の賦」ではこのとき土佐の有力者・一条氏に正室を送り込んで油断させた……なんて話になっていますが、流石にそれは(ヾノ・∀・`)ナイナイ
一条氏に娘を嫁がせて内部掌握を図ったというのが事実のようです。

 

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信長は遠い国のライバル?

しかし元親が土佐で手間取っている間に、信長は上洛を果たし、包囲網を敷かれるも突破しつつある状態になっていました。
ここでぶつかり合っても勝ち目はないと判断した元親は、「ウチの嫁はあんたの家来(明智光秀の家臣・斎藤利三)の妹なんだし、仲良くしませんか?」と同盟を誘いかけます。
一見信長には何の得もなさそうですが、いずれ討つにしても傘下に置くにしても、四国は後回しです。
それに、四国と他の地域の大名が手を組んで歯向かってくればこれまた面倒。
なら一度丸め込むに越したことはない、と二つ返事でOKを出しました。
「これでワシらは親戚も同然よ。お主の息子に『信』の字と刀をやろう。あと、四国はお前が好きに攻め取ればいい」
こうして元親の長男は『信親』と名乗ることになります。
名乗りに人から字をもらうことは家臣扱いも同然ですから、長宗我部家からすればちょっと微妙な気分になったかもしれませんが、このときはこれで収まりました。

同時第一の権力者・信長からお墨付きをもらった元親は、いよいよ本格的に四国統一に乗り出しました。
まずは阿波(現・徳島県)、次は讃岐(現・香川県)と兵を進めていきます。
戦ばかりでなく、自分の息子を地元の有力者へ養子として送りつk……もとい、迎えさせたりと、様々な手を尽くしました。
このとき阿波で徹底抗戦したのが十河存保(そごうながやす)です。
そりゃ秀吉の時代になっても仲が悪いわけで。

 

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村上水軍に手こずっているうちに信長のちゃぶ台返し

最後に残った伊予は、守護・河野家が海の向こうの毛利家から支援を受けていたため、元親も攻めあぐねます。
しかも手古摺っている間に信長の気分が変わってしまい、「やっぱ四国もワシのもんにするから、お前は土佐に引っ込んでくれない?あ、オマケに阿波の南側はやるからいいだろ?」と無茶難題を吹っかけてきました。

絵・くらたにゆきこ

また村上水軍が邪魔を……絵・くらたにゆきこ

 

直接対立したわけでもないのにこの手のひら返し、当然元親が受け入れられるわけがありません。
これを呑んだら、長宗我部家そのものが織田家の傘下に入ってしまうことにもなります。
家臣を養うために四国統一を目指していた元親に、引き下がるという選択肢はありませんでした。

そして天正九年(1581年)には信長が本格的に四国へ介入してきます。
これまで降してきた大名達へ援助を行い、元親の行く手を阻み始めました。
さらには同時期に中国を攻めていた秀吉も連携してきます。

このまま押し切られれば元親と長宗我部家は完全に織田家に屈することになったでしょう。
しかし、天はまだ見捨ててはいませんでした。
この翌年、天正十年(1582年)に本能寺の変が起こり、信長が死んで織田家は一時麻痺状態に陥ります。
実はこの6月2日という日、信長の三男・信孝を総大将とする四国遠征軍が渡海する予定だった日でした。
このことから、本能寺の変の黒幕として元親の名前を挙げる人もいますが、それはまた別の機会に。

 

本能寺の変きたーーー!没落フラグきたーーー!

第六天魔王とかひどいこと言わないでよ・・・

結局お会いできませんでしたね(絵・富永商太)

千載一遇とも言えるこのチャンス、もちろん元親は逃がしませんでした。

邪魔者達を再度蹴散らし、さらには中央の秀吉vs勝家の織田家後継争いにも間接的に介入しています。
そのせいでやはり中央から軍を差し向けられました。
このとき戦ったのがやはり後日因縁のできる(というかこのときにできた)仙石秀久です。
小西行長の率いる水軍にも勝っています。
ほぼ互角の戦力であれば負けなしといってもいいほどの勝率です。

が、そのおかげで伊予の平定にはますます時間がかかってしまいました。
しかもその間に中央はすっかりまとまり、天下第一の権力者となった秀吉は信頼する弟・秀長に10万の兵を率いて四国を攻略するよう命じます。
さすがの元親も、この大軍に降伏せざるを得ませんでした。
その後、土佐一国に押し戻された長宗我部家がどうなったかは……やはり過去記事をご参照ください。
戦で勝ったことのある相手のせいであんなことになったら、そりゃ夢も希望もありませんやね……。

暗いまま終わるのも何ですので、最後にやはり「夏草の賦」をオススメします。
小説なので創作部分も多いには多いですが、正室とそこそこ仲が良かった感じ(子供6人います)や当時の土佐がどんなところだったかという風俗面、元親の隆盛と長宗我部家の凋落をざっくり掴むには良いんじゃないかと。
文庫で上下巻と歴史小説にしては短いですし、秋の夜長にいかがでしょうか。

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長月 七紀・記




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