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(絵・桂花)

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その日、歴史が動いた 徳川家

忍者・服部半蔵、実際は武士! 家康に仕えた忠臣は優しさの人だった

更新日:

ニンジャとサムライ。
日本に来たことのない外国人が真っ先に思い浮かべる単語ですが、本物はというと実はそこまで超人というわけでもなかったようで。
江戸時代になってからの侍はむしろ貴族や官僚に近い存在ですし、忍者もまた廃れていった……というのが現実です。
はたまた、マンガ等の影響で侍なのに忍者と思われている人もいたりして。
今日の主役はその筆頭にあたる人です。

慶長元年(1596年)11月4日、”服部半蔵”の通称で知られている服部正成(まさなり)が亡くなりました。

忍者というと冷酷・すばしっこい等々のイメージが強いですが、実はこの人は忍者よりも侍らしい仕事のほうをよくやっています。
中でも有名なものは「徳川信康の切腹」と「徳川家康の伊賀越え」に関する話ですね。

 

信康に薦めようとした側室が旧武田家臣の娘だった

信長と家康が同盟を結んでいた頃、信長が家康を疑ったことがありました。
信長の娘・徳姫は家康の長男・信康に嫁いでいたのですが、姑にあたる家康の正室・築山殿と非常に険悪な仲でした。
いつの時代も嫁姑バトルは変わりませんね。おーコワ。

しかしここで信康は完全には嫁の味方につかず、「まあまあ、母上とも仲良くしてくださいよ」的なことを言ってしまったため、妻の怒りに油を注いでしまいます。
これでプッツンしてしまった徳姫は、なんと信長へ12か条にも渡る愚痴……もといお悩み相談の手紙を書き、こっそり届けさせます。
その中には、「あのBBA武田家と内通してるみたいなんですけど!今川家出身だっていうし、お父様に何かあったらいけないのでご報告しますわね!」なんてものもありました。

これには一応もっともらしい経緯がありまして。
なかなか信康に男の子が生まれないのを心配した築山殿が「側室にしてもしなくてもいいけど、お側の女性を増やしたらどうかしら」と自分の侍女を息子に引き合わせたのですが、この侍女が旧武田家臣の娘だったのです。

これを知った徳姫は正室としてのプライドを傷つけられた上、敵の女を旦那に近づけさせたということでますます姑に不信感を持っていたのでした。
そこへ「まあまあ」なんて言われてしまったのですから、そりゃ妻としては怒りたくもなります。
その場で刺さなかっただけまだマシなほうでしょう。

 

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信長VS家康VS家康長男にはさまれて

この手紙を読んだ信長、「よーしパパ婿殿処分しちゃうぞ☆」と即刻信康と築山殿の処刑を家康に命じました。
いくら同盟相手からとはいえ、嫡男の処分を求めてきた信長に対し、徳川家は大混乱。
織田信忠(信長長男)様より信康様のほうが出来がいいからひがんでるんですよ!」
「つーか娘の言い分だけ聞くとか何様!?」
「同盟破棄して一戦しましょう!」
「でもウチだけじゃ勝てないだろ?信玄のとき(三方が原の戦い)みたいになるかもよ?」
などなど、さまざまな意見が飛び交います。

迷った後、家康は信長との同盟存続を選びました。
嫡男と正室の命と引き換えに、徳川家の潔白を示そうとしたことになりますね。
現代から見るとトーチャンひでえ……とも言いたくなりますが、そうでもしなければ信長が納得しないことを、家康は重々理解していたのでしょう。
築山殿は処刑、そして信康には切腹が命じられました。

その介錯(とどめ)を命じられたのが正成なのです。

絵・富永商太

 

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家康の息子コロスのにためらう半蔵

しかし、正成は信康に刀を向けることができませんでした。
「父祖の代から仕えてきた主筋の方に、刃を向けることはできない」という、実に人情深い理由で。
一度引き受けたのですから覚悟はしていたのでしょうが、それでも涙を流しつつ断ったそうです。

家康も代々仕えてきた信頼置ける家臣だからこそ、正成を信頼してこの役を任せたのですが、それでもできなかったのです。
あまりにも正成が拒絶したので、結局信康の介錯は別の人がすることになりました。
けれど家康はこれを聞き、「戦場で鬼と言われたお前も、主君を手にかけることはできないか」と納得し理解もし、一層正成への評価を高めたとか。

 

本能寺の変からの脱出

もう一つは、本能寺の変のとき。
無事疑いの解けた家康は、安土城に招かれ歓待を受けていました。

その後信長の勧めで京都・堺(大阪)の見物へ行っていたのですが、ここで本能寺の変が起きてしまいます。
光秀の目的は現在に至るまで不明のままですが、同盟相手の家康もぼんやりしていればタダですみません。
なにせ本当に見物のために来ていたので、全員でも三十数人という小学校の一クラス程度の人数しかいなかったのです。

これでは応戦など思いもよらず、見つかったら一巻の終わり。
そこで堺から大急ぎで帰ろうと決めます。

が、パニクっている割にやることの早い光秀、信長軍の残党狩りのためにあちこちへ兵を放っていたので、普通の方法では帰れなくなっていました。
万事休す!と覚悟を決めかけた家康に、正成は「ウチの地元をお通りください!」と案内役を買って出たのです。
正成は同行していた堺の商人・茶屋四郎次郎とともに、自分の出身地伊賀と隣の甲賀の有力者達に話を通し、時には本多忠勝が脅s……口添えすることにより、家康は無事帰ることができたのでした。

このとき協力的だった伊賀・甲賀の人々に家康は感謝を忘れず、後々幕府を作ってから召抱えました。
しばらくの間は間諜などで役に立っていたそうですが、八代吉宗の頃には「だめだこいつらはやくなんとかしないと」レベルになってしまっていたそうで、新たに作られた御庭番衆に仕事を奪われてしまいます。
忍者でも平和ボケするんですね。

 

地下鉄「半蔵門」駅

まあそれはさておき、こうして忠義と家康の命を救ったという大手柄でもって、正成はより一層信頼されるようになりました。
現在東京メトロに「半蔵門」という駅がありますが、あれは正成とその一族が江戸城裏手にあたる位置に屋敷をもらったことからきています。
現在の半蔵門も皇居の裏口に当たるため、厳重に警備されていますね。
某マップでもその場所を見ようとすると、首都高速の内側の写真しか出てきません。
日光浴中の全裸女性とか宙に浮かぶ謎の人影とか撮ってるあのG社も、さすがに入れなかったようです。皇居パネェ。

こうして家康・徳川のピンチのたびに助っ人よろしく出てきた正成は、意外にも関が原の戦いの前、江戸で静かに生涯を閉じたのでした。
お墓は半蔵門から新宿通りを西へ進み、四ッ谷駅を過ぎた先の西念寺にあります。
ここには正成の建てた信康の供養塔もありますので、彼の情け深さや主家への忠誠心が伝わってくるようです。
新宿御苑などなど、お近くへお越しの際は立ち寄ってみてはいかがでしょうか。

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長月 七紀・記

 




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