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その日、歴史が動いた 鎌倉・室町時代

室町ラスト将軍足利義昭の長生きの秘訣は、剣豪(運動)と貧乏(質素)

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天寿を全うした15代将軍足利義昭

結構エラい人のはずなのに、教科書では死ぬ前に退場してしまう人って結構いますよね。

いや、逆に言えば信長のようにはっきりしているほうが珍しいのかもしれません。
今日の主役は信長とやり合おうとして大失敗したあの人です。

天文六年(1537年)の11月13日、後に室町幕府最後の将軍となる足利義昭が誕生しました。
一般的には「誰それ?」「聴いたことある気がする」「信長のおかげで京都に戻れたけど、信長ケンカして追い出された人だよね」くらいの認識しかされていませんが、意外にも天寿を全うしています。

亡くなったのは慶長二年(1597年)で、信長に追放された後も元気にしていたのです。
これは足利家の将軍の中では一番の長寿でもありました。
しかし後ろ盾がなくなったはずの義昭は、どうやって生活していたのでしょう?

 

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風光明媚な鞆の浦でオモチャ幕府を開く?

放浪生活が長かったとはいえ、義昭はれっきとした足利本家の当主。
実は、近畿以西では信長を警戒するのと同時に義昭に味方した大名も多くいました。
代表的なのは毛利家と島津家で、この二家の援助により生活には困らなかったようです。
そのおかげで当時毛利家の勢力下にあった、足利家ゆかりの地・鞆(とも)に御所を構えることができました。
もっとも、信長に認められるまでは放浪も同然の生活をしていた義昭ですから、今更不便とも思わなかったかもしれません。

教科書上では義昭が京都を去った時点で「室町幕府は滅んだ」とされていますが、秀吉が九州討伐を終えるまでの間は征夷大将軍であり続けたので、義昭が鞆で政務をしていた間を指して「鞆幕府」と呼ぶこともあります。
政務が取れる程度の家臣もついてきていたようです。

 

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引退後は坊主になって秀吉の御伽衆にも

信長とは敵対した義昭でしたが、秀吉には案外あっさりと天下人の座を譲り渡しました。
一説には、秀吉が九州へ向かう途中で太刀の交換をしてその意思を示したともいわれていますね。
この間、島津家と秀吉の間を取り持とうとしていた動きもあります。
ただ庇護されていただけではなく、きちんと将軍として仕事をしようとしていたのでしょう。

征夷大将軍の地位から退いた後はすぐにお坊さんになって、「もう積極的に政治には関わらないよ」という姿勢を見せたことも、穏やかに暮らせた理由の一つ。
しかも朝廷からは皇后などに次ぐ位である「准三后」を授けられましたから、秀吉も粗略に扱うことはしませんでした。
かつて義昭と信長が争った槇島(まきしま)に領地を与え、さらに「前将軍で准三后の人は敬わないとマズイだろ」というわけで、豊臣政権では破格の待遇を受けていたそうです。
秀吉の側近であり話し相手の「御伽衆」にも名を連ねていたり、朝鮮出兵のときも渡海はしなかったものの名護屋までは行っていたりと、決して冷遇されていたわけではない、のですが……。

 

葬儀を執り成したのは細川幽斎だった

60歳で従軍というハードワークをやったためか、その年のうちに義昭は京都で亡くなってしまいます。
このとき、秀吉は義昭の葬儀を積極的にはやっていないのです。
なぜかというと、「前将軍として葬らなきゃいけないけど、儀式のやり方を知ってる人がウチにいない!!」という何ともおマヌケな理由。
あっちこっちに問い合わせて、ようやく白羽の矢が立ったのは戦国最強のチート・細川幽斎でした。何かとネタの多い忠興のお父さんですね。
彼は文武両道にも程があるとしか言いようがない教養人でしたし、代々室町幕府に仕えていた家の人ですから、当然儀式などにも強いわけです。
かつては、京都から逃げ回って信長のところに落ち着くまでの義昭と一緒に放浪生活をしていたこともありました。

しかし「葬儀をやるのは構いませんが、ウチにそんなお金はないんですけど……」という状態。
腐っても鯛ならぬ死んでも前将軍ですから、形式を整えてきちんと葬儀をするには莫大なお金がかかります。
細川家だけでそんな資金が出せるはずもなく、義昭にずっと従っていた家臣たちが方々に頼み込んでやっと葬儀をすることができました。
それも必要最低限の物を揃えるのが精一杯で、前将軍の葬儀としてはとても寂しいものだったそうです。

 

秀吉がカネを出してくれれば…

秀吉が「ならワシが出してやろう」と言ってくれれば、名実ともに立派な葬儀ができたはずなんですよね。
慶長の役(朝鮮出兵の後半戦)の最中でお金が惜しかったのかもしれませんが。
ここから逆算すると、やはり秀吉が信長の葬儀をハデに執り行ったのはパフォーマンスの面が強かったのでしょうね。
対して、義昭の場合は既に後継者もなく、滅びたものとして世間に認識されていましたから、「死んでまで特別扱いしなくてもいいだろ」と思っていたのかもしれません。
戦国を見事に生き抜いた義昭にはさほど非はないはずなんですが、死人に口なしとはいえ、ちょっと可哀相な気がしてきます。

長月七紀・記

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参考:http://iiwarui.blog90.fc2.com/blog-entry-2398.html

 




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