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飛鳥・奈良・平安時代 その日、歴史が動いた

平将門って、呪う前はイイ人だったの!? 首塚の呪い以外の功績も見てみましょう

更新日:

首塚の呪いで畏れられる平将門さんってどんな人?

頼られると人間誰しもうれしいもの。
力不足なことまで頼まれてしまうと困りますが、できそうなことだったら引き受けますよね。
しかし、それも限度を超えると身を滅ぼすことになったりして……。

天慶二年(939年)の11月21日、平将門の乱が勃発しました。

将門というと、東京・大手町の「首塚の呪いでコワイ人」と思いがちですが、実はこの乱自体は将門が積極的に起こしたのではなく、むしろ助っ人として兵を出したものでした。
どういうことか、もうちょっと詳しく見てみましょう。

 

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親戚同士のケンカがいつの間にかお上にケンカうっちゃって

将門は桓武天皇の五世孫として生まれました(5世たつと皇族とは認められないのが古代からの日本伝統のルールです。昔も、そして今でも…東京五輪招致の息子でも…)。

出生地や出生年などは今もはっきりしていませんが、関東であることは確かです。
桓武天皇の子孫ということになりますが、この頃には既に中央の政権はすっかり藤原氏に握られていて、都に出ても出世は望めませんでした。
それでも藤原忠平という藤原氏の有力者に個人的に仕えることができ、人柄を認められたため、わずかながらに朝廷とのパイプを持つことに成功します。

そのまま京で頑張れれば良かったのですが、関東で叔父の平国香(たいら の くにか・かわいい名前だけどおっさんです)がゴタゴタを起こしてしまったため、急遽戻らざるをえなくなってしまいました。

京から戻ってきた経緯にも諸説あり、はっきりしたことはわかっていません。
このあたりの不明確さそのものが将門の身分の低さを表していますね。
基本的に、いつの時代もエライ人じゃないと行動がはっきり記録されませんから。

実家のゴタゴタのついでに周辺地域のいざこざも(主に腕力で)片付けた将門でしたが、朝廷からは「個人的なケンカでしょ?片付いたんなら別にいいよ」とお咎めを受けることはありませんでした。
朝廷に逆らったわけではないので、中央からすればどうでもよかったんでしょうね。
まして関東は当時未開の地にも等しい地域ですから。

が、これが結局将門の命を縮めることにつながります。

その後またも武蔵(現・東京都)でドタバタが起こり、当事者の片方である興世王(おきよおう)が「将門さんちょっと手伝ってくださいよ」と駆け込んでくるのです。こいつはぶっちゃけ不良すぎて都にいられなかった皇族ということでOK(OKなのか笑)。

あっちこっちから頼られることに慣れてしまった将門は、今度も口と兵を出しました。
そして首尾よく勝ったはいいものの、そのついでに敵方の常陸国(茨城県)の国守の証・印綬(ハンコ)を奪ってしまったのです。
これは朝廷が「こいつがここの正当な国守ですよん」と認めた証になる大変重要なもの。
奪い取ることは、その決定に逆らうことを意味しました。
若気の至りが反逆にエスカレートしてしまったわけです。

 

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黒王にのった真皇ラオウとでも名乗れば勝ったかもね

この重要さがわかっていなかった将門は、側近に納まっていた興世王の「このついでに関東を全部ウチのシマにしちまいましょう」という甘言にノってしまいます。
そして実際に兵を動かし連戦連勝。
ついには「新皇」を自称して中央から独立する姿勢を見せました。
どうせなら「真皇」とかにしとけば清々しいほど厨二だったのに……おっと誰か来たようだ。

しかし、将門の独立計画は風によってあっさり終わりを迎えます。
国香の息子(将門の従兄弟)にあたる平貞盛とその叔父・藤原秀郷(奥州藤原氏の祖先)との戦で、向かい風に視界を遮られた隙に流れ矢に当たって命を落としてしまうのです。
途中までは押したり引いたりの激戦でしたから、さぞ無念だったことでしょう。

平将門/wikipediaより引用

 

日本初の獄門さらし首

そして将門の首は京へ送られ、晒し首(獄門)になりました。
現在見つかっている資料では、将門の首が初めての例だそうです。
ということは、それまでそういうメに遭った人がいない=かつてないほどの辱めだったわけで。
そりゃ呪いたくもなろうというもんです。

ちなみに胴体のほうは、弟達によって関東で葬られました。
今も茨城県坂東市の延命院というお寺の境内にあります。
ここは伊勢神宮の領地だったため、その後も荒らされずに済んだとか。
首塚は東京都千代田区をはじめいろんなところにありますね。
ということは、千年以上経った今も首と胴が離れっぱなしだというわけで。
そりゃ呪いたくも(ry

 

神田明神も兜町もみーんな将門

日本三大怨霊として知られている他の二人(菅原道真・崇徳天皇)が祭祀によって鎮まっている形跡があるのに対し、将門だけ未だに呪いの噂が絶えないのはここが原因だったりするのかもしれません。
将門も神田明神などで祭られていますが、首と胴がそのまんまじゃねえ……。
しかも最初は人助けのためにやったことで討伐されたんですし、そんなんじゃ死んでも死にきれんというか、全方位を恨みたくなるのもわかる気がします。

といいつつ、兜町も将門由来の地名ですが、お金儲けの町だったりするので、案外、地元の関東人には優しいんですかね。マサカドミクスを期待しましょうか!

長月 七紀・記

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参考:平将門/Wikipedia

 




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