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イエズス会と言えばフランシスコ・ザビエル/Wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた キリシタン

ザビエルが日本で布教した後、ドコへ行ったかご存知ですか?

更新日:

学校の教科書だと歴史の流れを掴む(暗記する)ことが優先されているためか、誰もが知っているような人物でも出身や最期を知らないことが多いですよね。
今なら畳(ベッド)の上が当たり前ですが、昔は事故でなくても旅先での客死というのも多くありました。
今日の主役さんもその一人。
一度見たら忘れられない髪形のあの人も、自国とは遠く離れた地で亡くなっていたのです。

1552年(天文二十一年)の12月3日、日本に初めてキリスト教を伝えたフランシスコ・ザビエルが中国大陸で亡くなりました。

「日本に来たはずなのになんで中国よ?」と思われた方、ごもっともです。
そこにはザビエル一生一代の盛大な勘違いが隠されていました。

 

インドのゴアを経由してマレーシアへ 「ヤジロウ」に出会う

ザビエルが東洋に来たきっかけは、ポルトガル王の依頼によるもの。
彼が所属していたイエズス会に「植民地でもキリスト教徒を増やしたいんだけど、行ってきてくれない?」という、当時の交通事情からするとかなりハチャメチャな話でした。

しかしイエズス会自体が「世界中にスンバラスィ神様の教えを!」というモットーを掲げていたので、会はこれを引き受けます。
そしてザビエル一行は約1年の航海を経て、当時ポルトガル領だったインド・ゴアの街に降り立ったのでした。

出向の日はちょうどザビエル35歳の誕生日だったそうで、無事着けて何よりです。

一向はインドやマレーシアあたりで布教を進めます。
その途中で出会ったのが日本人のヤジロウという人物でした。
この人物から日本のあれこれを聞いたザビエルは、「そこでも神の教えを広めたい」と使命感に燃え、またも渡航を決意します。

既に40歳だというのに元気なオジサンです。

 

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「男色イケマセーン! 地獄に落ちマース」

ザビエルは幸運にも日本へ上陸し、薩摩や周防(現・山口県)で布教を試みます。
しかし薩摩では仏教との衝突を回避するために引き下がり、周防では後々アーッ!のもつれで滅びる大内義隆に追い出されてしまいました。

後者の理由がまた「男色イケマセーン! 地獄に落ちマース」「ふざけんな男とアレコレできないなら神なんぞいらんわ!!」というものだったともいうのでどうしようもありません。
だから滅びるんだよ……とも言いたくなりますが、まあこの時点だと未来の話ですから。

その後は天皇と将軍に会うため京までやってきます。
しかし、わけのわからん姿をしている上「神の教えが云々」とのたまうザビエルを、朝廷も幕府もすんなり通してはくれませんでした。

当時の天皇は後奈良天皇、将軍は足利義輝です。
後奈良天皇は京と民の復興を願って般若心経を自ら写経したり、伊勢神宮へ詣でるなど神仏への信仰がとても篤い方だったので、たぶん周りの人が気を利かせたのでしょう。
義輝のほうはこの頃将軍職にはついていたものの、まだ京に腰を落ち着ける前だったので、そもそも京の市街にいなかった可能性もあります。
実にタイミングの悪いときに来たものです。

 

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望遠鏡やメガネを進呈したら大内義隆の態度が一転

どちらにも会えない! それを悟ったザビエルは(´・ω・`)顔で京を去りました。

そこで「土産物をたっぷり持っていけば、大内サンも布教を許してくれるかも」と思い立ち、荷物の中から西洋の文物をあれこれ引っ張り出します。
これが見事に当たり、初めて見る望遠鏡や置時計・眼鏡などに大内義隆はホックホク。
以前キレたことも忘れて「ウチの領内は布教オッケー!」とあっさり許可を出してしまいます。現金すぎ。

ザビエルもはりきって連日教えを説き、周防(山口県)で500人もの信者を獲得することができました。

豊後(大分県)にも行き、大友宗麟へもキリスト教を伝えています。
そして大友家も後々滅亡の危機にさらされるのでした。
……大内家といい島原の乱といい、なんか日本でキリスト教が広まるとロクなことがないような……。

けっこう疫病神だったりして(絵・くらたにゆきこ)

けっこう疫病神だったりして(絵・くらたにゆきこ)

 

次は中国で布教だ! と意気揚々と出たものの……

何とか神の教えを広めようと頑張るザビエルでしたが、一つ気がかりなことがありました。
インドに残してきた人々から連絡が来ないのです。

後世からすれば「そりゃアンタ、二年の間に薩摩→周防→京→周防→豊後なんて大移動してたら連絡の取りようがないだろうよ……」とツッコみたくなりますが、残念ながら当時彼に指摘した人はいませんでした。
同時に日本での布教が予想以上にうまくいかないことに対し、何らかの策を打たなければと考えます。

そこでザビエルが思いついたのが中国への布教。
「日本人や日本文化は中国の影響が強いそうデース。それなら、中国を神の教えでいっぱいにすれば、日本人もマネするはずデース!ワタシ頭イイネ!」
と考え、今度は中国への渡航を決意します。
そしてやはり誰も止める人がいなかったため、一旦インド・ゴアに戻り、マカオ付近から中国(当時は明)へ入ろうと試みました。

しかし、やはり外見の違いからか言葉の壁か、なんと手続きに手間取っている間に病気で亡くなってしまいます。

おそらくザビエルからすれば、漢字や仏教は中国から伝来したもの=中国文化を信仰しているように見えたのでしょう。
ですが、当時でも数百年前に遣唐使が廃止され、その後独自路線を辿ってきたのが日本文化。
もし仮にザビエルが無事中国に入り、布教が成功していたとしても、日本のキリシタンの人数はあんまり代わってなかったんじゃないですかね。
彼に良いツッコミ役がいれば、もうちょっと落ち着いたところで最期を迎えられたんじゃないでしょうか。
やはりボケとツッコミのバランスは重要ですね。

長月 七紀・記

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2014年にインドのゴアでは10年に一度のザビエルのミイラがご開帳でお祭りになっています。(閲覧注意)
これがあのザビエルさまの現在のお姿です。インドで信仰の対象となっています。日本の即身仏と同じですね。(バチカンのニュースサイトが公開




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