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イラスト・富永商太

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その日、歴史が動いた

真田幸村ファンが燃え上がる大坂冬の陣「真田丸の戦い」

更新日:

 

戦争に勝つための条件って何だと思いますか?
軍の統率が取れていること、優秀な指揮官に恵まれていることなどいろいろありますが、一番は「自分が圧倒的に有利な状況のときに、相手を降伏させること」です。
相手を完全に屈服させたり滅ぼしたりすると、直接統治するためのコストがかかります。

しかし、できるだけ痛めつけた上で自軍が有利な状況であることを示し、「命は助けてやるからオレ様に従え」とお情けをかけてやれば、元の統治者ごと傘下に入れられるので自軍の出費は少なく、統治の手間もかからないわけです。
古今東西いつでもどこでもあてはまる法則ですが、日本史上でももちろんそうした例はいくつかありました。

慶長十九年(1614年)の12月4日、大坂冬の陣最大の激戦・真田丸の戦いがありました。

真田幸村が徳川方を見事撃退した戦いとして有名ですよね。
その割には真田丸がどの辺にあったのか、最近まではっきりしていなかったようですが、近年の発掘で段々その姿がわかってきたそうです。(関連エントリー:真田丸を再現した驚愕CG!歴史秘話ヒストリアで目からウロコと・・・)

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当コーナーで紹介した前哨戦「鴫野・今福の戦い」は北東のほう、真田丸は南側です。

 

そもそもこの戦いで徳川方が負けたのは、兵の一部が勝手に攻め込んでしまったことが原因でした。
家康は野戦の名人ですから、逆に攻城戦は不得手。
人間誰しも、苦手なことをやるときにはより一層慎重になりますよね。
ですから、家康としては少しずつ準備を整えながら城へ迫る予定でした。実際、家康は2日に加賀藩3代目の前田利常(としつね、利家の四男)の陣を訪れて、塹壕を掘って時間をかけて真田丸を攻撃するように指示を出していました。

しかし全軍に家康の方針が行き届いていたわけではありません。
大坂攻めについてあちこちの大名が集まって巨大な編成になっていましたから、当然オツムの足りない兵や統率に問題のある隊もあったわけで。
そうした一部の軍が豊臣方の挑発に乗ってしまったことから、真田丸での激戦が始まります。

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*真田丸の周辺の地形は当時と変わっており、真田山公園は実は真田丸の一部ではなく徳川方が早々に占領した場所(篠山)で、真田丸は明星中・高校のグラウンド付近なのだそうです。

 

前田隊先走る!

戦闘が始まったのは12月4日の未明。
先に動いたのは前田隊の一部でした。
なぜ「一部」かというと、流石に利常は家康の方針を知っていますから、隊が一丸になって動いたわけではなかったからです。
当然利常は慌てて撤収命令を出しますが既に激しい戦闘になってしまっていました。

奇襲を受けた幸村は、あくまで冷静に迎撃します。というよりも、幸村がわざと仕掛けた罠だったからです。

2日から2日間にわたり、えっちらおっちらと塹壕を掘って近づく前田隊に対して、幸村は真田丸から兵を出して、南にある篠山という丘(現・真田山公園)から、土木工事をしている前田隊を散々に銃撃したのです。

鼻毛大名こと前田利常はなかなかのやり手なので、グヌヌヌとなりながらも家康の命令を受けているので、なんとか我慢します。(参考「前田利家の息子・利常 別名【鼻毛大名】は最後のリアル傾奇者だった!」
ところが、そのやられっぱなしの様子を横で見ていたバカ息子として名高い征夷大将軍徳川秀忠が「なにちんたらしているんだ、篠山を奪取しろよ。もっと陣も前に進め」と、おバカな命令をしてしまいます。

そして4日未明(午前2時頃)、前田家の筆頭家老の本多政重隊が篠山に進撃。前田隊は「奇襲」と思っていましたが、幸村は見抜いており、篠山から兵を撤収させます。

本多政重さん(Wikipediaより)

本多政重さん(Wikipediaより)

振り下ろした刀はなかなか止まりません。兵たちは「楽勝だぜ~!逃げてくぞ!」と真田丸まで追いかけていきます。

政重は、家康の重臣本多正信の息子ながら、関ヶ原では西軍の宇喜多秀家隊で戦っていたという異色の経歴を持つ歴戦の勇士です。「これはまずい」と進軍を止めようとしますが、土木工事ばかりで戦いに飢えていたほかの前田隊も真田丸に突き進み、収拾がつかなくなります。

なんとか自分の部隊だけは落ち着かせていた政重も、真田丸から「やーい、弱虫(超訳)」とあおられたら、攻撃を命じています。あちゃー。

ここで、幸村隊は、堀を渡ってくる前田隊の前から横から雨あられと弓や鉄砲を放ち、次々に倒していきました。
その勢いはすさまじく、堀が前田隊の遺体で埋まり、その上をさらに後続が乗り越えようとしては撃たれ……という惨憺たる有様だったとか……。
なんでそこまで堀越えにこだわるのかというと、堀の外側からでは射撃が届かないため、どうしても直接城壁に取り付かなくてはいけなかったのです。

 

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県民ショーかっ?!お隣の福井県も焦って突撃

この動きを知ったお隣の福井藩の松平忠直隊や井伊直孝(赤鬼こと井伊直政の次男)隊がそれぞれ自分達の持ち場から大坂城の南側防衛ラインと真田丸へと攻めかかります。

完全防備の敷かれた大坂城のような巨大な城塞に正面から突撃するなんて愚の骨頂なのですが、悪いことは重なるもので、守備側の兵が火縄を弾薬箱に落として大爆発を起こして、櫓が炎上するという大事故がたまたま起きます。

しかも、この守備側の武将が石川康勝という、本多正信以上に家康の家臣筆頭で秀吉に寝返った石川数正の息子だったものですから、徳川方は「石川さん裏切ったんだ。もともと徳川の家臣だもんね」と大いに勘違いして、さらに無謀な突撃をかけます。そこで、待ちかまえた城兵に次々やられてしまうわけです。

あっちこっちの惨状を知った家康は、当然退却を命じます。
しかし計画を立てての攻め方ではなかったため、撤退時用の装備が整っておらず、退却には何時間も要しました。
おそらく撤退が決まってからもかなりの犠牲者が出たことでしょう。

この勝利に沸いた大坂方は、「やっぱり大坂城はスゴイ!」と徹底抗戦ムードを強めます。
これも家康にとっては頭の痛いことでした。
野戦で勝ち、あとは兵糧攻めなりなんなりで締め上げれば楽に終わると思っていたところでこれですから、怒ればいいやら落胆すればいいやら。

 

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真田丸おとすよりも不眠症の淀君を落とすことに変更

そこで家康は、城を攻め落とすよりは「大坂方に戦を諦めさせる」方法を考え始めます。
堤防で川の流れを変え水不足を狙う、地下から城へ迫るために坑道を掘らせる、果ては城内の人間を不眠に陥れるため、毎晩鉄砲を撃ちかけるなどなど、実にいやらしい作戦を連発しました。
特に銃声や鬨の声(戦のときに皆で叫んでるアレ)はすさまじかったようで、京都まで聞こえたこともあったそうです。もしかしたら京の市民や貴族、皇族まで不眠になってたんじゃないでしょうか。迷惑にもほどがあんだろ。

それでも大坂方は折れません。
ついに業を煮やした家康は、鉄砲だけでなく大砲を使った一斉砲撃を始めます。
当時日本に来たばかりのイギリス・オランダ製の最新式のものも含め、100門以上の大砲をどんどこ大坂城へぶっ放します。
家康だけでなく、徳川方のほとんどの大名はかつて大坂城に入ったことがありますから、当然どの辺にどんな部屋があるか知っていたでしょう。
かつて秀吉が諸大名を集めた千畳敷の大広間や、後宮ともいうべき淀殿の居室まで容赦なく砲弾が炸裂しました。

それまで「城にいればワタクシと秀頼は安全。皆の者存分に戦ってたもれ」と安心していた淀殿も、自分の部屋で侍女が吹っ飛ぶのを見てしまい、ついに心が折れます。
こうして真田丸の戦いで勝利を収めたにも関わらず、豊臣方は「真田丸の破却」「外堀を埋める」(史実では二の丸まで廃棄する約束だったようですが)などの多大な条件をつけられ、講和になったのでした。
当時ですら「どうせもう一戦するんだろ」と言われているので、形だけであることはバレバレだったようですがね。
続きはまた当コーナーで。→「豊臣家滅亡のカウントダウン 大坂夏の陣開戦【その日、歴史が動いた】」

長月七紀・記

 

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参考文献:




1位 西郷隆盛49年の生涯!


2位 ホントは熱い!徳川家康


3位 意外と優しい!? 織田信長さん


4位 直虎の後を継ぐ井伊直政とは?


5位 毛利元就の中国制覇物語


6位 伊達政宗さんは史実も最高!


7位 最上義光 名将の証明


8位 最期は切ない豊臣秀吉


9位 史実の井伊直虎とは?


10位 もしも戦国武将がサッカー日本代表だったら?


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