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その日、歴史が動いた

馬子を手玉に取った女帝・推古天皇って、実際どんな政治をしたのだろう……

更新日:

 

国王と言えば、オトコ。
歴史上、どこの国でも「王様は男がやって当たり前」でしたが、これを完全にやってのけた国はほとんどありません。

ヨーロッパには「サリカ法典」という女性の王位継承を原則として認めない国際法のようなものもあります。それでも現在のスペインやオーストリアでは女性の君主が存在した時代があります。(参照「関西学院大学高畑由起夫研究室

イギリスは元々サリカ法典の適用外だったので、何回も女王を輩出することができました。一方、他国では、旦那さんとの共同統治だったり、「女王を認めて欲しいなら戦争でウチに勝ってみろよ!」というようにケンカを吹っかけられたりして、到底順調とはいえませんでした。

エジプト女王として有名なクレオパトラも、弟であり旦那さんの王様と共同統治をしたので丸く収まっています。この例外はもちろんサリカ法典が及ばないどころか、当時知られていなかった地域です。

同時代にもっと有名な人がいるので忘れられがちですが、アジア初の女性君主は日本のあの人でした。

 

異母兄弟の敏達天皇と結婚

崇峻天皇五年(592年)の12月8日、推古天皇が即位しました。
この方の摂政が聖徳太子ですので、聞き覚えのあるようなないような方も多いかもしれませんね。

推古天皇(Wikipediaより)

「はいはい、また藤原氏のゴリ押しだろ」と思われた方はちょっと気が早いですよ。
この時代、まだ藤原氏という家はできておらず、政治の中枢にいたのは蘇我氏と物部氏という二つの家でした。
ではどうして即位できたのかというと、藤原氏のテンプレとはまた違った複雑な事情があったのでした。

事の発端まではテンプレ通り、単純な皇位継承問題です。
推古天皇の父は欽明天皇。そしてその息子・娘には、後の推古天皇を含めた6人兄弟がいました。
古代の皇室によくあることで、推古天皇はまず兄の敏達天皇と結婚します。
母親が違ったので、実際には異母兄弟ですが、まぁすごい時代ですね。

途中、穴穂部(あなほべ)皇子という人が反乱を起こしかけて返り討ちに遭うというトラブルはあったものの、当初は例に従って年長の男子から順に皇位を継いでいきました。
長兄である敏達天皇の次はすぐ下の異母弟(推古天皇にとっては同母弟)・用明天皇、その次はアホをやらかした穴穂部皇子(故人)を飛ばし、末弟の崇峻(すしゅん)天皇へと皇位が渡ります。

 

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推古天皇を皇位につけるためなら暗殺をも厭わない

が、この順調さを逆恨みしたのが蘇我氏。
特に推古・用明両帝の叔父にあたる蘇我馬子は、「オレの甥っ子が天皇になってウハウハできると思ったのに、何も出来なかったじゃねーか!」と用明天皇がすぐに亡くなってしまったことに不満タラタラでした。
そこで馬子は、推古天皇に目をつけたのです。

いや、目をつけるどころか、彼女を皇位につけるためにさっそく行動を始めました。
なんと推古天皇にとっては異母弟の崇峻天皇を暗殺してしまうのです。
フットワーク軽いってレベルじゃねー!

 

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蘇我馬子の目論見 大ハズレでm9(^Д^)プギャー 

このとき皇室には他に適齢の男子がおらず、突然空いた皇位にてんやわんや。
しかし、誰か適した人物をつけなければ、せっかく(建前上は)30代続いた皇室が滅びてしまいます。
そこで馬子はそ知らぬ顔で「お前、皆のために皇位についてくれないかい」と姪っ子に打診し、推古天皇が即位したというわけです。

これで目論見通りアレコレできるとニンマリしていた馬子でしたが、そうは問屋が卸しませんでした。
というのも、推古天皇は馬子が思っていたような大人しい女性ではなく、ずっと頭のキレる人だったからです。

まずは弟・用明天皇の忘れ形見で甥っ子にあたる聖徳太子(厩戸皇子)を皇太子の位につけ、蘇我氏にばかり権力が集中しないよう対策を取ります。
厳密にいえば聖徳太子にも蘇我氏の血は入っているんですが、馬子からすれば甥っ子の子=姪孫(てっそん)ですから、おそらく二人ともさほど血縁を感じていなかったでしょう。
そうなると、血縁を盾に権力を握りたい馬子としてはかえって邪魔になります。
女帝の眼力オソロシス。

 

 「私の遺骸は息子の墓へ葬ってほしい」

ちなみに推古天皇には竹田皇子という男の子がいて、この方が成人するまでの中継ぎとして即位したのだという説もあります。
しかし、竹田皇子は推古天皇の即位前後あたりで亡くなってしまい、そのため聖徳太子を立てたのだとか……。

夫にもわが子にも先立たれた推古天皇はさぞ悲しんだことでしょう。
実際、推古天皇は崩御の前に「私の遺骸は息子の墓へ葬ってほしい」と言い残していますしね。

推古天皇の時代は聖徳太子が大活躍した時期ですので、女帝個人の功績と呼べるものは特に記録されていないようですが、適切な補佐役を選び実務を任せる判断力というのは間違いなく一種の才能と呼べるでしょう。

中継ぎのつもりで即位して、亡くなるまで約25年大きな問題もなく政治を遂行。

そう考えると、やはり名実伴った女帝だったのではないでしょうか。

長月 七紀・記

 

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参考:http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2011/12/post-0253.html
http://ja.m.wikipedia.org/wiki/推古天皇




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