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その日、歴史が動いた 江戸時代

生まれついてのプリンセス 家光の三女・千代姫のふわふわ人生

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江戸時代の大名がド貧乏だったという話は度々取り上げてきましたが、将軍家や御三家にもなるとやはりその例外でした。
といっても十五代いる将軍の前半に限れば、という条件付でしたが。
中でも三代家光から五代綱吉あたり、幕府の絶対性が確立されていく時代ではまさに「将軍様」といった様相。
それは普段の生活だけでなく、冠婚葬祭にも及びます。
今回の主役は、おそらく時代劇などでイメージされる「お姫様」像に最も近い一生を送っていたであろう女性です。

元禄十一年(1699年)の12月10日、家光の長女で尾張家二代・徳川光友へ嫁いでいた千代姫が亡くなりました。

とある姫さま(絵・くらたにゆきこ)をトリミング改変

(絵・くらたにゆきこ)

嫁ぎ先からもわかるようにバリバリの政略結婚でしたが、案外快適に過ごしていたのではないか?といわれています。
理由は大きく分けて三つ。

BLな将軍さまが男装女子にほれた!

一つは、彼女が家光にとって初めての子供だったということ。
ご存知の方も多いと思いますが、家光は若い頃衆道(BL)にハマってしまっていて、女性に興味がないという困った将軍でした。
そこで春日局が「少しでも上様のお気に召す女性を集めたい」とあっちこっちから年頃の娘を探してきたのが一般的なイメージのついている大奥のはじまりです。
それでもなかなかうまくいかなかったらしく、春日局は千代姫の母・お振の方を男装させて家光に近づけたといいます。
男装が似合うということは、おそらく中性的な感じの美人だったのでしょうね。男装させないと萌えないなんて、家光どんだけ~

そして千代姫が生まれたのですが、お振の方は産後の肥立ちが悪かったのか、千代姫の輿入れ前に亡くなってしまいます。
ただでさえ男親は娘を可愛がるものですし、さらに幼くして片親になったとなれば、さすがの家光も千代姫が可愛くて仕方がなかったでしょう。
婚姻が決まった後、尾張家へ「大事な大事な娘をやるんだから、く れ ぐ れ も 大 切 に な(でないとどうなるかわかってるよな^^)」(超訳)という手紙を出しているくらいですから。

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おなじ徳川一門ながらワケありだった尾張家

二つめは、千代姫の輿入れは将軍家と尾張家の仲介役の意味もあったということ。
家光は「オレは生まれながらの将軍だ!」と言ったように、自尊心の強い人でした。
生来病弱だったこともあり、そのくらいハッパをかけないと百戦錬磨の大名達にナメられてしまいますから、これは悪い方針ではなかったのですが、ここまで言い切ると反発も招くわけで。
その筆頭が尾張家初代の義直だったのです。
義直は義直で「権現様の息子」であることを誇りにしていましたから、家光なんぞガキんちょにしか見えないわけです。
といっても義直は家康の九男ですので、家光とは三歳しか違わないんですけどねえ。狸親父生涯現役過ぎる。

もちろん面と向かって子供扱いはしないものの、儒教を重んじる義直は「叔父である自分を尊重するのが当たり前」「でもウチは分家だから、いざというときは将軍家を守るよ」という考えが強すぎました。
家光が一度寝込んだときには、尾張から大軍を率いてやってきて「すわ謀反か!」と幕閣を慌てさせたこともあります。
義直としては「将軍危篤のときに江戸を騒がす不届き者がいたら成敗するため」という言い分だったのですが、騒がせてるのはどっちだYO!
……とまあこんな感じだったので、将軍家と尾張家の仲は悪くはないものの、一歩間違えれば何が起きるかわからないという緊迫した状況だったのです。

しかし上記の通り家光は千代姫が生まれるまで子供がおらず、跡継ぎ問題が起こりかけていた状態。
となれば御三家筆頭である尾張家の中から次の将軍が出る可能性もあり、両者とも何とか関係改善を図りたいところではありました。
そこで尾張家のほうが折れて「お嬢様をウチへいただけませんか」とお願いし、頼まれた家光も「そんなに言うならやらんでもない。ただし大事な(ry」という念押しつきで輿入れが決まったというわけです。

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プリンセス中のプリンセス

最後は、彼女が生涯「将軍家の姫」という扱いを受け続けたこと。
上記の脅s……ゲフンゲフン、念押しの中に含まれていたのか、千代姫は嫁に行った後もずっと「姫様」と呼ばれているのです。
それは家臣だけでなく、夫の光友や息子達もでした。
奥さんのほうが身分が高いので特別扱いされたんですね。

嫁入り道具にもその片鱗がうかがえます。
「初音の調度(=家具や身の回りの品)」として現在名古屋の徳川美術館に所蔵されているものが有名ですかね。
ちなみに某電脳歌姫とは関係ありません。
この時代、大名家の姫は源氏物語の「初音」の段から学ぶのが慣例化していました。
光源氏の人生最盛期ともいえる段で、お正月のめでたい様子が描かれている話です。その縁起の良さ、女性達の慎ましやかな様子から「高貴な女性はこうして過ごすもの」という見本として教材に選ばれたのでしょう。
初音の調度はこの段に出てくる和歌を題材にとった蒔絵(漆の上に金粉や色つきの粉で描く絵)が施されており、その品数の多さや絵の見事さから「一日見ていても飽きることがない」とまでいわれました。

漆だけでも熟練した職人が必要ですし、その上に金銀を使って絵を描くとなればさらに多くの人の手が要ります。
当然費用はうなぎ上り。
それを気前良くポーンと出した家光の子煩悩さ、姫とともに受け取った尾張家のgkbrぶりが目に浮かぶようです。
とはいえ、大名家の正室は江戸藩邸に住むことになっていましたので、実際には数百メートルしか移動しておらず、調度品や衣類などが紛失・破損するおそれはさほどなかったでしょうけども。

この三つが絡み合い、千代姫は嫁ぎ先でも相当大事にされていたと思われます。
決して大人しいばかりの姫ではなく、「私が男だったら今頃将軍をやっていたのに」なんてことも言っていたそうなので、やはり家光の娘なんだなあという気がしますね。
夫・光友はこのお姫様を上手に扱えたようで、夫婦仲についてはとくにゴタゴタしたとかトラブルがあったというような話は伝わっていません。
千代姫から尾張家三代・綱誠(つななり、またはつなのぶ)が生まれていますし、早世した子を含めれば四人の子宝に恵まれています。
将軍家への体面のためといえばそれまでですが、千代姫がちょっとでも不満に思えばいつでも実家へ言いつけられたでしょうから、おそらく政略結婚としては順調な夫婦生活だったのではないでしょうか。

名古屋城を見ることはなく

彼女の生涯で残念だったと思われることは一つ。
それは、天下の名城・名古屋城を自分の目で見られなかったことです。
名古屋城は、千代姫からすれば曽祖父の家康が、歴戦の大名に命じて作らせた城。
建物は違いますが、かつては織田信長が生まれた場所でもあります。
光友も当然話の種にしたでしょうし、藩邸に出入りする家臣達からどんなところか聞き知っていたことでしょう。
例え夢物語だとわかっていても、一度見てみたいと思っていた可能性は十分にあります。

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photo by Paul Davidson

光友がその意をくんだのか、はたまた彼女自身が言い残したのか、初音の調度は千代姫の死後、一式揃えて名古屋城へ送られました。
普通嫁入り道具は代々江戸藩邸で受け継いでいくものでしょうし、それをあえて国許へ送ったからには何か理由があったと見て間違いないでしょう。
千代姫の遺体は将軍家の一員として増上寺に葬られているのですが、もし生前からそれを知っていたとすれば「愛用の品に宿って、名古屋のお城を見に行きたい」と思っていたのかもしれませんね。
ちょっとロマンチックすぎ?

長月七紀・記

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参考:http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2011/12/post-af23.html
http://hikaenochou.world.coocan.jp/18imagawa.html




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