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その日、歴史が動いた

江戸の華・吉原が移転オープン たんなる売春地帯ではなく「開かれた大奥」だった?

更新日:

世界最古の職業の一つ、水商売。

実質的なタイムリミットや世間からの視線という難点もあるものの、元手が要らず需要が保たれているためずっと続いてきた職業でもあります。

明暦二年(1656年)の12月24日、遊郭として有名な吉原が移転しました。
昨日は誕生日特集と言っておきながら、人じゃなくて施設のお話ですすいません。
移転=生まれ変わったということでここは一つ。

江戸の治安を守った吉原

花魁 - 無料写真検索fotoq
photo by takkle K

そもそも何で吉原ができたのかというと、江戸幕府が治安・風俗を管理するためです。
家康が来るまでの江戸が原野状態だったというお話は以前チラっとしましたが、幕府ができれば話は違います。
あっちこっちから浪人や職人がやってきて、江戸は活気付くと同時に男ばかりのむっさい場所になってしまいました。
となると次に必要になるのは女性です。

そしてあっちこっちに水商売のお店ができたのですが、散らばったままだとどうにもこうにも風紀が乱れます。
それに各大名屋敷も建てられていきますから、ヘタをすると「ナントカ家のすぐ目の前が風俗!」なんてことになりかねません。こりゃてぇへんだ。
当然幕府はそんなことにならないよう、前もって「ココにナントカ家の屋敷建てるから、お前らは引越しなさい」とお触れを出して予防していたのですが。
しかし頻度があまりにも多いため、その業界の人々が困りきり「これ以上引越しが重なると困るので、どこか土地を確保してもらえませんか」と幕府へ陳情しました。
今も昔もここらの都市計画がテキトーなのは変わってないんですねえ。

そこでまず、現在の日本橋人形町あたりに遊女屋の区画ができました。
「吉原」の名は、当時このあたりに多く生えていた「葦」からつけられています。
「あし」だと「悪し」に繋がるので、縁起を担いで「よし」と読ませたんですね。

ですが、やがて吉原付近にも大名屋敷が立ち並ぶことになりました。
そこで幕府が再び移転を命じたのが明暦二年というわけです。

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ブラックな働き場所だったかというと

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photo by welovetaipei
ところで吉原というと「年端もいかない女の子がさらわれて無理やり働かされているところ」と思っている人もいるかもしれませんが、そのほとんどは親の事情で売られた子供でした。ひどいのはどっちだか。
理由は借金のカタだとか口減らしのためとか、家によってさまざまです。
それでも飢饉や地震などの災害や疫病で命を落とす庶民が多かった中、最低限食べていける場所としては悪くなかったのではないでしょうか。
蝶よ花よと大事にされることはなくても、掟を守って仕事をしていれば生活できたはずですから。
外出の自由がないとかは大奥や大名屋敷の奥勤めなんかも同じですし。

というのも、吉原は今のキャバクラその他のフーゾクなお店とは違って、かなり形式を重んじる場所だったからです。
元がお上から「見苦しくないようにしろ」と言われてできたものですので、金さえ払えば初見の男性でもやりたい放題できる……というような場所ではありませんでした。
細かいことを書くとキリがないのでざっくりいいますと、基本的に三回目まではお目当ての遊女とロクに会話も出来ないのです。
一回目と二回目はほぼ顔を見るだけ。それでも当然お金はかかります。
しかも遊女だけでなく、お付きの人や店のスタッフにまで心づけをしなくてはいけませんでした。
これを乗り切って三回目になると、ようやくお目当てとムフフなことができるのですが、ここまでで現在のお金にして1000万以上すっ飛ぶのです。
当然庶民はそんなお金をホイホイ準備できませんから、お客は自然と裕福な人=教養のある人に限られてきます。
さすがに全部の店がこういう方式ではなく、もう少し省略している店もあったそうですが。

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吉原脱出 3つの方法

花魁1957-5 - 無料写真検索fotoq
photo by 阿光
遊女が吉原から出る方法は主に三つありました。
一つは、二十七~八歳のタイムリミット(年季明け)まで勤め上げること。
吉原ができて200年くらいの間は、この方法で吉原を出て行く遊女が多数派だったそうです。
外で生活の目処が立たない場合は、吉原の中で仕事をしている人もいたようですが。

もう一つは年季明けまでに買われた分の金額を返しきること。
しかし着物などは自腹で揃えなくてはならなかったので、これができる遊女はさほど多くはありませんでした。
中にはスタッフが金額をちょろまかしていて、借金が減るどころか増え続けることもあったとか……。

最後の一つは、馴染みの客が借金を肩代わりして遊女を身請けすること。
まさに女性を買う=人身売買のようなものですが、吉原というのは遊女も客を選ぶ権利があったので、無理やりさらうとか買うということはさほどなかったと思われます。
元々莫大なお金がかかるため、やはり裕福層が身請け人になることが多かったようですが、中には町人でも真面目にお金を貯めて引き取りに来ることもあったとか。
ちょっとしたロマンスですね。

開かれたハーレムとしての吉原

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こういうわけで、吉原は単なる女遊びの場所ではなく、いわば「開かれた後宮」というような場所でした。
言い方は悪いですが、どこの国の後宮でも親である貴族や有力者が娘を送り込んでいたわけですから、さほど変わりませんよね。
王様一人に気に入られなければ死活問題の後宮よりも、お馴染みの客に身請けしてもらえるかもしれない吉原のほうがいいわ!なんて考えている人もいたかもしれません。
長月七紀・記
参考:http://www.tanken.com/yosiwara.html

 




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