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その日、歴史が動いた

武士の世が終わるカウントダウンが始まった!鳥羽伏見の戦いで戊辰戦争勃発【その日、歴史が動いた】

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 どこの国でも、「伝統が途絶えかけている」とよく言われます。

日本であれば初詣や年賀状をパスする人が増えたとか、フランスだったら「若者がワインを飲まなくなってきたので、ワイン関係者が困っている」とかですね。最近では南スーダンで年末年始にも戦闘が続き国際社会からひんしゅくをかっています。(南スーダンは昨年、一昨年の年末年始も戦闘をしていたのでもはや伝統かもしれませんが)

では昔の人は押し並べて伝統や季節の行事を大事にしていたかというと、そうとも限らなかったりします。

お正月から戦闘はじめた「古きよき日本」

慶応三年(1868年)の1月3日、鳥羽・伏見の戦いにより戊辰戦争が勃発しました。松の内から罰当たりなものです。
とかくややこしい幕末のことですので、以前の記事と少しかぶりますが、ここまでの流れをざっとおさらいするところから始めましょう。

前年(慶応二年・1867年)10月に大政奉還で権力を返したものの、最後の将軍・徳川慶喜は「なら新しい世の中でも生き残る方法を見つければ良いじゃん」と考え直しました。そして、これまでの幕府が担ってきた経験を生かし、朝廷から新しい政府ができるまでの暫定政権を任されます。
しかし、あくまで武力による倒幕を考えていた薩長ら諸藩や岩倉具視などの公家は「マズイ、これじゃ名前が変わっただけで中身が変わらん!」と焦ります。そして12月に「王政復古の大号令」を出して、「NO徳川!YES天皇陛下!」という態度を明らかにしました。

こうして緊張が高まる中、慶喜は「もう幕府はないことになってるし、武力衝突したらこっちは勝てない。ここは表面だけでも遠慮しておこう」ということで一度京都・二条城から出て大坂城へ入ります。
京都にいるといかにも「オレは天皇陛下から認められてるから退かぬ媚びぬ省みぬ!!」と言い張るようなものですし、かといって江戸まで帰ると何かあったときに対応できません。大坂城は京から近い上幕府の直轄地でしたし、少し前には十四代将軍・家茂が長州征伐の指揮を取った場所でもありましたから、政治的にも軍事的にもちょうど良かったのです。秀吉とか秀頼にとってはぐぬぬどころじゃないでしょうけども。

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倒幕派(のちにヒーロー)によるテロ計画

ですが討幕派はやはり気に入らず、何としても徳川家とその周辺を政治中枢から取り除くべく、江戸でのテロ活動などあれこれ画策します。挑発して、出てきたところで「ウチの若い衆に慶喜さんちの人が乱暴したんですけど!監督が行き届いてない慶喜さんはもう政治に関わらないでくださいね!」というような流れにしたかったのでしょう。チカンの冤罪みたいな手口ですね。
慶喜もさすがにアホの子ではないので、それはお見通し。「まだ世間が物騒なので」「京都も何かと危ないからちょっと下がりますね」などなど、のらりくらりといい逃れて立場を譲りはしませんでした。
合戦も面白いですが、こうした頭脳戦もなかなか興味深いものです。

が、慶喜の考えは江戸に残してきた留守番役にはわかりませんでした。
「最近薩摩の奴らがいろいろやらかしててウザいし、薩摩藩邸にガサ入れるか」と、慶喜の許可も取らずに江戸の薩摩藩邸を取り囲んだ上、焼き討ちしてしまうのです。

読み自体は当たっており、テロ実行犯は慌てて藩邸から逃げ出したのですが、これは治安の回復どころか薩摩側に「ほーら旧幕府のヤツらはダメじゃないですか!ブッコロしていいですよね!ね!?」という口実を与えてしまいます。惜しい。

これを知った慶喜は「あんのアホども……」と青筋を浮かべつつ、起きたことは仕方がないので「薩摩とドンパチする準備だけはしよう。朝廷にこっちの言い分を聞いてもらえれば何とかなるかも」と考え、1月2日に大阪城を出て京へ向かいました。
京を封鎖してしまえば、薩長に朝廷を取り込まれることもなく、徳川家にとって有利になるからです。

しかし時既に遅く、その頃新政府側では「徳川ぶっ潰しましょう」という決定が下されていました。
そして3日に京都へ入ろうとする旧幕府軍へ容赦なく鉄砲を撃ちこみます。
「何すんだゴルァ!」と怒っても、新政府軍は「これが目に入らぬか!」と天皇から授かった旗(いわゆる”錦の御旗”)を掲げました。

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たかが旗、一番びびったのは天皇LOVEな慶喜だったとか

現代人からすると「たかが旗が何の役に立つんだよ?w」と言いたくなるかもしれませんが、古今東西関わらず、旗というのは社会的に極めて重要な意味を持つのです。
軍のトップの所在や、さらにその上の王様・皇帝を示すものだったからです。

旗に関する人物で有名なのはジャンヌ・ダルクですかね。
女性でしかも農家の出身ですから剣の扱いは慣れていなかったでしょうし、「聖女」としては直接血を浴びるよりも旗手として味方を鼓舞するほうがふさわしいと思ったのかもしれません。
聖女であるジャンヌがフランスの旗を持って鼓舞したことにより、百年戦争時のフランス軍は大いに士気を上げ、体勢を立て直していきました。
また、戦争で敵から奪い取った土地や前人未到の地に自国の旗を立てることは、「ここは俺たちのものだ!」「ウチの国はこんなすごいところに来たんだぞ!」という証明にもなります。
このように、政治や軍事における旗というのはただの布切れではなく、士気や権力の所在を表すものだったのです。

日本の場合は当然、一番偉いのは天皇です。
敵がその天皇を示す旗を持っているということは、それと敵対している自分達は反逆者になってしまいます。
例え実際に天皇から「お前ら敵な」と言われていなくても、錦の御旗は天皇が認めた軍しか持てないからです。

これで一気に戦意を失くした旧幕府軍とは対照的に、新政府軍のテンションはうなぎ上り。
当時どちらの軍も外国産の最新装備を整えていましたが、士気の差によって鳥羽・伏見の戦いは新政府軍の圧勝に終わりました。
そして賊軍扱いは避けられないと知った慶喜は、大坂城から逃げ出し、権力を一度放り投げることによって自分と徳川家の血筋を残す道を選びます。……そういうことにしといてあげましょう。

長月七紀・記

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