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今も歴史ファンに人気の高い楠木正成/Wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた

楠木正成が死んだ後の楠木家ってどうなった? 息子2人も戦死し……

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どんな主君にでも大体一人はいるありがたい存在、それが「忠臣」。
この単語からどんな人を連想しますか?
三国志好きなら諸葛亮、日本の戦国時代が好きなら森蘭丸あたりでしょうか。もちろん他にもたくさんいますが。
はたまたこの単語を聞くと後ろに「蔵」とつけたくなる方も多そうですね。
今回の主役は、主に戦前「忠臣」の代名詞となっていた父子です。

正平三年(1348年)の1月5日、楠木正行(まさつら)・正時が四条畷(しじょうなわて。現在の大阪府四條畷市)の戦いに敗れ、刺し違えて自刃しました。

「誰それ?」といいたくなるような名前の上に初っ端からふりがなだらけで読みづらくて申し訳ありません。彼らは楠木正成の息子で、父親が亡くなった後もその遺志を継いで戦い続けていたのです。
もう一人正儀(まさのり)という弟がいるのですが、四条畷のときは年齢的に無理だったのか、それとも別行動をしていたのか、一人だけ生き残ります。
正成親子については元の身分の低さも相まって、正しい生年がわかっていないのではっきりしませんが、おそらくはこのどちらかでしょう。
もし三人でまとまって全員討ち死にしたら、血筋が絶えてしまいますし。

室町時代のお話です

このとき戦った相手である足利尊氏については以前取り上げましたので、今回は同じ時期のできごとを楠木家を中心に見ていきますね。
事の発端は、鎌倉幕府を倒した後に後醍醐天皇と公家達が「武士はもういらん!これからは朝廷が政治やるから!」とトンチンカンな舵取りをしようとしたことです。
しかし、実際に幕府を倒したのは武士ですから、蔑ろにされれば頭に来るに決まっています。が、上記の人々はこの点を全く理解していませんでした。
そうこうしているうちにドンパチが起き、「朝廷なんてクソくらえだ!」とする武士の多くが尊氏をリーダーに担ぎ上げ、尊氏を征夷大将軍として新たな幕府を作ろうと動き始めます。
これに対して、朝廷には正成を始めとした「三木一草」といわれる武士達が味方しました。「き」がつく人が三人、「くさ」がつく人が一人だったので、植物になぞらえてこう呼んだのだとか。ゴロが悪いとか言っちゃダメです。
この四人は代々の武家というわけではなく比較的新しく勃興してきた勢力で、後醍醐天皇によって取り立てられたため武士でありながら朝廷側についたのです。

が、人数的にも権勢的にも足利側のほうが上でした。
何せ朝廷側は武士という存在そのものををナメきっているので、正成がいくら「こうすれば勝てます」と進言しても「尊氏はまぐれで勝ってるだけだから、そんな策を使わなくても次はこっちが勝つだろう」なんてこれまた軍事的センスのかけらもない理由ではねつけてしまっていたのです。
何で自分が知らないことをそんなに断言できるんでしょうね。根拠のない自信ってコワイ。

これではいくら正成たちが頑張っても、戦う前から勝敗は見えています。
現代人、あるいは戦国武将であればこの辺でケツをまくるところですが(お食事中の方すみません)前述の通り三木一草は後醍醐天皇のおかげで日の目を見ることができたので、そういう選択肢を選べませんでした。
この辺の「忠義第一!」なところは江戸時代の武士に似てるかもしれませんね。価値観の違いが何度も入れ替わっていると見るとなかなか興味深いです。

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「桜井の別れ」とは

どう見ても勝ち目のない戦いの中で、三木一草は次々と斃れます。
しかしただではやられまいと、息子達に後を託して逝きました。
その一人……いや、三人が正行・正時・正儀というわけです。

特に長男・正行と正成については「桜井の別れ」という逸話が有名ですね。
が、この話は創作の可能性も高いようです。
話の中で正行は11歳ということになっていますが、このとき正成が42歳くらいだったといわれているので、当時の結婚年齢等からすると不自然なためです。
長男の正行が11歳だと、次男と三男はいったいいくつだったんだってことになっちゃいますしねえ。
正成の死が延元元年=建武三年(1336年)ですから、このとき正行が11歳だと戦死したのが23歳になり、いかにも「若くして華々しく散った忠臣」として美談にできるので年齢をいじくったのではないでしょうか。
忠臣蔵といいお七火事といい、現実は綺麗な話ばかりじゃないんですから、中途半端に創作したものをまことしやかに広めないでほしいものです。
史実が記録されてないとどっちがホントかわからなくなっちゃいますよ( ´・∀・)(・∀・` )ネー

閑話休題。
とまあ、こうした理不尽な理由で苦境に立たされたにもかかわらず、正成の息子達も朝廷に尽くしました。
このころになるともう完全に皇室が真っ二つになってしまっているので「朝廷」だけだとビミョーに意味がズレますが、やたらと用語を増やしてもややこしくなるだけなのでとりあえずこのままでいきます。

特に正行は後醍醐天皇の次に即位した南朝側の天皇・後村上天皇からかなり信頼されていたようで、「お前がこの前助けてくれたウチの侍女をあげるから、命を捨てるようなことはするな」とも言われています。
が、父と同じく絶対に勝てないことがわかっていた正行はどちらも断り、覚悟が揺るがないことを歌で表しました。

「かへらじと かねて思へば 梓弓(あずさゆみ) なき数にいる 名をぞとどむる」
(意訳:生きて帰ってくることができないのはわかっています。だから、ここに我らの名を書きとめておこう)

梓弓は多くの場合枕詞として使われる単語です。
神事に使われる弓のことで、この歌を詠んだのが後醍醐天皇の御廟だったことや、武士らしさを出すため、そして「いる=射る・居る」に繋げるために入れたのでしょう。
意味は難しくありませんが、こうした技巧を入れた歌が詠めるということは、正行には文学的なセンスもあったのかもしれません。

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しじょうなわてで多勢に無勢で散る

そして正行と正時は、四条畷の戦いに挑みます。
合戦そのものの記録ははっきり残っていませんが、一説には二十倍以上もの兵力差があったとか。
しかも足利側の大将は高師直(こうのもろなお)。
室町幕府のナンバー2で、あれこれ悩みがちな尊氏を支えてきた実力者です。
予想していたこととはいえ、なにもかもケタ違いなこの戦は当然のごとく正行たちが敗れます。
そしてやはり父と同じく、敵に殺されるよりはと兄弟刺し違えて死んでいったのでした。
かつて尊氏は「正成は立派な武士だから、首を返してやれ」と言って本当に首を送り届けてきましたから、自分達の首も確認されることはあっても辱められることはないと考えたのかもしれません。
その後正行の首や胴体は知己の僧侶や地元民によって手厚く葬られたようなので、やはり首を晒してそのまんまということはなかったのでしょう。祟りも起きていないようですし。

かの国たちにも知って欲しい「罪を憎んで人を憎まず」

正行の忠節ぶりには敵だった二代将軍・足利義詮も心を動かされたようで、彼は「死んだら正行の隣に墓を建ててほしい」と言い残しています。尊氏涙目。
義詮は楠木家の末弟・正儀に京都から追い出されたことがあるのですが、それでもこう言ったということは本当に尊敬していたんでしょうね。
ちょっと違いますが、「罪を憎んで人を憎まず」にも通じるものがあるように思います。

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ちなみにちっとも名前が出てこなかった次男・正時についてはまともな記録が残っていないようです。
中には存在すら忘れられている場合もあったりして、これはこれで泣けてきますね……。
もしかすると、影のように兄に従うような人だったのかもしれません。
今後彼に関する史料が見つかれば良いのですが。
長月 七紀・記




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