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その日、歴史が動いた

斉明天皇の勇気~みずから新羅との戦に備えて難波を出発、しかも女帝!

更新日:

 

「かかあ天下が夫婦円満の秘訣」「亭主元気で留守がいい」というように、家庭内のことについては女性が主権を持っていたほうがうまくいくという言い回しは多々あります。
それだけ何かを守ったり維持することには女性のほうが向いているということなのでしょうが、中にはそれを飛び越えた女傑ともいうべき人もいたりして。
今回の主役は、空前絶後の肝っ玉母ちゃんといえそうな女帝です。

 

戦乱の朝鮮半島情勢

斉明天皇七年(661年)1月6日、斉明天皇が百済(くだら)での戦に備えて難波から船に乗り、一路筑紫(福岡県)を目指しました。
百済というのは当時朝鮮半島にあった国の一つで、前の年に新羅(しらぎ)という同じく朝鮮半島の国と唐王朝の連合軍により滅ぼされてしまっていたのです。。
しかし、百済に仕えていた人々や民衆が粘り強く抵抗を続けており、友好を結んでいた日本も「じゃあ手伝ってあげましょう」ということで援軍を出すことに。
わざわざ天皇が督戦(後方で前線の兵を激励すること)のため、わざわざ九州まで出かけたという念の入れぶりです。
明治天皇も日清戦争のとき広島の大本営までは行っていますが、さらに近いところまで出向いたあたり気合の程がうかがえます。
某ジブリ映画で「そのシャツ誰が縫うんだい?」って言ってたおかみさんみたいな感じですかね。違うか。

 

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67歳でもやる気満々です

このとき斉明天皇は67歳。
現代ならまだまだ元気というか、むしろ「年金も出たし人生これからよホホホホホホ」といわんばかりにセカンドライフをお楽しみになる奥様も多い歳ですが、西暦三ケタの時代には長寿の部類でした。
それでも筑紫まで出かけられたのですから、相当エネルギッシュな人であったことは間違いないでしょう。
古代史については史料が少なすぎて、権力者であっても人柄を窺い知るのはほぼ不可能な場合が多いですが、ここまでの足跡を辿ってみてもこの点はさほどズレていなさそうです。

というのは、斉明天皇が一度、皇極天皇として即位したときのこと。このときも48歳という決して若いとはいえない年齢での即位でした。
年齢のせいかどうかは定かではありませんが、当時の有力者・蘇我蝦夷の言いなりになりっぱなしの女帝ではなかったようです。
この頃、日照りが続いたため雨乞いの儀式をしたという記録があるのですが、蝦夷が主催したものは全く効果がなかったのに対し、皇極天皇が祈りを捧げたところ5日間にもわたる大雨が降ったとか。
記録通りの出来事が起きたかどうかはわかりませんが、少なくともこれを書いた人が蝦夷より皇極天皇を信頼していたからこそ、このような記述があるのではないでしょうか。
蝦夷と皇極天皇は数十歳離れているので、ただのガキんちょにしか見えなかったのかもしれません。

そして皇極天皇時代にはあの乙巳の変・大化の改新が起きています。
教科書だと「中大兄皇子と中臣鎌足が蘇我をブッコロしました」としか習いませんが、一緒に出てくるあの絵(多武峰縁起絵巻)の左上にいる女性は皇極天皇なのです。入鹿の首に目が行きがちですが、当コーナーのアイコンにも写ってますね。

この一連の事件により、皇極天皇は史上初めての譲位を行い、皇位から退きました。
が、位を譲った相手の孝徳天皇が早く亡くなってしまいます。
皇太子として皇極天皇の息子である中大兄皇子がいたのですが、なぜか即位せず母親がこれまた史上初めての重祚(ちょうそ。一度皇位を下りた天皇が再び即位すること)をすることになりました。

 

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中大兄皇子が即位しなかった理由は?

既に成人していたであろう中大兄皇子が即位しなかった理由は、現在の研究でも意見が分かれるところ。
乙巳の変時に権力を一時失っていたからとか、「弟である大海人皇子と中大兄皇子の兄弟順が記録上あべこべになっていて、本当は兄である大海人皇子が即位するべきと考えていた」とかいろいろいわれています。
中には「両親が同じ妹が大好きだったから」なんて下世話なものもあったりして(当時兄妹婚は珍しくありませんでしたが、両親が同じ場合だけはNGでした。片親が違えばおkってことですね)

これだけ仕事とトラブルが重なればそろそろ「私も隠居したいんですけど」と言いたくなりそうなものですが、全くそんな気配がうかがえないのがまたスゴイ。
重祚した後は大規模な工事をいくつもやらせたり、朝鮮半島の国々や蝦夷(東北の原住民のほう)と隼人(鹿児島辺りにいた原住民のこと)から「アナタ様に従います!」という使者が来ていたりと、大活躍です。
工事のほうは必要のないものまで含まれていたため評判が悪かったようですが。

 

そして冒頭の船旅で、岡山、愛媛を経由して福岡(筑紫)まで来たのですが、兵が渡海するのを見ることなくそこで崩御しました。
女帝が亡くなった後、日と・旧百済の連合軍は白村江の戦いでボロ負けしてしまうので、このタイミングは良かったのかもしれません。
しかし日本(白村江・朝鮮の役・日韓併合)といいイギリス(百年戦争)といい、近くの大陸に出かけていって戦争するとロクな目に遭わないっていうのは何か法則でもあるんですかね。

長月七紀・記

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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/
http://www.geocities.jp/kakitutei_pickup/asakura/takara1.html

 




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