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その日、歴史が動いた 幕末・維新

安藤信正こそ幕府最後の忠臣!? 坂下門外の変で襲撃され、背中の傷が政治的致命傷に

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「ナントカの変」という事件は日本史上数多く存在します。
一番有名なのは、大老・井伊直弼が安政の大獄などの反発をモロにくらって殺された「桜田門外の変」ですかね。
ウィキペディアの幕末の事件一覧に載っているだけで7件も「変」のつく事件がありまして、もはや何がどう変わったのかわからんほどです。
要するに「気に入らん連中をブッコロしてしまえ!(あとのことは知らん!)」という事件にだいたい「変」がつくのですが、そのターゲットの中にはきわめてまともな人もいました。

文久二年(1862年)の1月15日、坂下門外の変で老中・安藤信正が襲撃されました。

老中というとエラい=ふんぞり返っててムカつく奴だろうと思われるかもしれませんが、この人はこの時期の幕閣としては極めて優秀な人物でした。

 

老中・安藤信正が襲われた坂下門ってどこよ


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彼の功績は、まず桜田門外の変の後始末をやってのけたこと。
当時は十四代・徳川家茂が将軍職に就いたばかりで、しかもまだ12歳という幼さでした。
そんなときに幕閣トップの大老が暗殺されたと世間に知れたら、一大事どころではありません。
直弼暗殺の理由の中には、開国させられたことへの不満も含まれていたからです。
こうしたバカでかい不祥事が立て続けにおきたことがもし朝廷の耳に入れば、「だから開国なんかすんなって言ったのに!もう幕府なんていらんわ!!」となるのは目に見えていました。

安藤信正/wikipediaより引用

 

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被害者報われない「襲われたほうも悪い!キリ」

そこで信正を始めとした幕閣は、直弼暗殺の事実を隠しに隠します。
この時代どういうわけか「襲われたほうもけしからん」ということになっていましたので、うっかり直弼がコロされたことを正直に公表すると「なら直弼んち(彦根藩)も悪いよね!取り潰しね!譜代だけど襲われたんだから仕方ないよね!」なんて誰も得しない事態になってしまうおそれがありました。
もしかすると、元禄赤穂事件の教訓から「喧嘩両成敗」が不文律になっていたのかもしれませんね。
この件については世間でいろいろ狂歌が詠まれていますので、江戸っ子にはバレバレだったようですが。

なにはともあれ、後に残された信正たちはもう一度幕府を安定させるべく奔走します。
公武合体の方針も信正が「朝廷と穏便にやっていきましょう。私に考えがありますから」と考え出したものです。
大雑把にいえば、信正は家茂と和宮の仲人ということになりますかね。

その他にも世情を安定させるための経済政策を打ち出すなど、家茂の治世を支えました。
なにせこの間、アメリカ公使館の通訳が薩摩藩士にブッコロされるというどう考えても国際問題モノの事件が起きています。
ちょうどアメリカが南北戦争中だったこともあり、うまく丸め込むことができたのですが、これを穏便に処理したのも信正でした。
彼以外の人間が担当していたらどうなっていたやら。

 

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桜田門外に続いて、また水戸浪士 黄門様なんとかせい!

しかしこうした信正の苦労が通じない不届き者も世間には存在していました。あっちこっちの反幕府派です。
そして年明け間もない1月15日、登城中の信正に水戸浪士の一段が襲い掛かりました。
襲撃犯の中に医者がいるあたり、殺る気の程がうかがえます。その意欲他のところに向ければいいのに。

が、直弼が暗殺されて以降、幕閣のみならず大名の警護は一段と厳重になっていました。
参勤交代時の大名行列とまではいかないものの、このときの信正も数十人のお供がついていたため、たった数名だった浪士たちはあっという間に返り討ちに遭います。せめて人数だけでも確認しておけと。
しかし完全に防ぎきることはできず、信正の乗った駕篭に銃撃や刀が突き刺さり、信正は背中に軽傷を負いました。
これが彼の運命を決めてしまうことになります。

 

軽傷も背中に傷が政治的に大ダメージ

武士にとって背中の傷は一生の恥でした。
「敵に背中を向けていた」=「逃げようとした」ことになるからです。
これと上記の「喧嘩両成敗」が結びつき、信正は「敵前逃亡とは武士にあるまじき行動!そんなやつに老中は任せられん!」という滅茶苦茶な理由で罷免されてしまいました。
一時の恥にこじつけ、それまでの実績を一切無視してクビとか正気の沙汰じゃありませんね。
似たような話をちょっと前に聞いた気がしますけど(ボソッ

こうして縁の下の力持ちだった信正は、罷免された上に半年後には隠居+蟄居(無期限の外出禁止)をくらうという理不尽な目にあってしまいました。
もし家茂がこの頃もう少し年長で、自分の意思で幕政を取り仕切ることができていたら止められたかもしれませんが、残念なことに将軍後見職という名のお目付け役に頭を抑えられていたため、それはかないませんでした。
信正が中央から去って以降の幕府にはもはや混乱を収めることはできず、生麦事件やら薩英戦争やら長州征伐やらで見事に転がり落ちていくことになります。
目先の権力と見栄に目が眩んで処罰を決めるとロクなことがないといういい例ですね。

長月七紀・記

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参考:安藤信正/wikipedia

 




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