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二つに分かれた帝国。それでもめちゃでかい(Wikipediaより)

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その日、歴史が動いた

世界がまじで動いたローマ皇帝テオドシウス1世の死

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本日は久々に世界史のお話です。
というか、まさに「その日世界史が動いた」出来事といっても過言ではありません。
ここまでのいきさつが大変ややこしいため端折りに端折りますので、学生の皆さんはくれぐれもアテになさらないように……え?いつもしてない?そりゃ失敬。

皇帝テオドシウス(Wikipediaより)

皇帝テオドシウス(Wikipediaより)

395年の1月17日、ローマ皇帝テオドシウス1世が亡くなりました。彼の死によってローマ帝国は東西の二つに分かれるのです。

早くも「誰それ」という声が聞こえてきそうですので、ローマ帝国の歴史をざっくりお話しするところから始めましょう。

以前中国史のテンプr……もとい概略をお話したことがありましたが、ローマ帝国も大まかに見るとやってることは対して変わりません。
ただ、ローマ帝国の場合は比較的早い時期に「こっからここまでローマ!」という枠組みが決まっていたため、その中で起きた政治的混乱・反乱・その他諸々の事件は、全部ローマ帝国内での出来事という受け取り方をされました。多分今でもそうです。
そのため、中国と同じく何度王朝が変わっても、現代から見れば「そこイタリアじゃなくね?」というような場所から皇帝が出てきても、「ローマ」という枠組みだけは変わることなく続きました。
そのため、世界史の年表でも「ローマ帝国」はでかでかと表記されています。
もし王朝が変わるたびに分けたとしたら、多分すだれみたいになっちゃうんじゃないですかね。
ちなみに日本はずっと同じ天皇家が存在しているため世界一長い王朝を持った国家でして、天皇陛下の国際的な席次がローマ教皇と並んでトップなのもこの歴史の長さによります。

 

広すぎたるは及ばざるが如し、のような感じで帝国分離!

閑話休題。話をローマ帝国に戻しましょう。
そんなこんなで内乱や暴君や名君の繰り返しが続いていたローマ帝国でしたが、何せ国土が広すぎたのでだんだん一人の皇帝が統治するのはキツくなってきました。
ついでにそこを狙って「俺たち独立しまーす!」とガリア(今のフランス・イングランド・スペイン・ポルトガルあたり)やパルミラ(同じくだいたいトルコ・シリア・エジプト・パレスチナ)が反乱を起こします。
アウレリアヌスという舌を噛みそうな名前の皇帝がこれらの国を討伐し、再びローマ帝国は広大な領土になるのですが、彼の次に即位したディオクレティアヌスは「もう一人じゃ無理無理。分けて統治すりゃまだマシになるでしょ」と柔軟な思考と諦めの良さで新たなシステムを考え出しました。

そこでまずローマ帝国の領土、すなわち地中海沿岸全域+αを大きく東西に分けました。
そして東西それぞれをさらに二つの区域に分け、四つの区域に一人ずつ皇帝をおき、いわば帝国の連合のような形で権力の偏りを防ごうとしたのです。
このやり方は間違ってはいなかったものの、言いだしっぺのディオクレティアヌスが亡くなると一気にポシャってしまいました。惜しい。
ポシャるとか逆戻りするだけならまだよかったのですが、さらにこの四つの帝位を巡って内乱が起きる有様。もうちょっと仲良くしろよと。

 

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現イスタンブールの都市名の由来のコンスタンティヌス

しばらくドンパチが続いた後、最初に「オレも皇帝になりたい!」と名乗り出たコンスタンティヌスが残り、再度皇帝は一人になりました。
先日オリンピック開催を競った(トルコの首都と勘違いされがちな)イスタンブールの旧名・コンスタンティノープルはこの人の名前からつけられたものです。(トルコの首都はワシントンアンカラです)
Yeni Camii - 無料写真検索fotoq
photo by Carabul

コンスタンティヌスはそれまで異端扱いだったキリスト教を利用しつつ公認し、世の中からワッショイされることになります。
しかしなぜかこの人の死後、ローマ帝国は息子達によって再度分割され、再び血で血を洗う内乱に発展してしまいました。父ちゃんの苦労が水の泡です。

コンスタンティヌス帝(元コンスタンティノープルのアヤソフィアのフレスコ画)Wikipediaより

コンスタンティヌス帝(元コンスタンティノープルのアヤソフィアのフレスコ画)Wikipediaより

……とまあ、こんなことを繰り返していたので、さすがのローマ帝国も徐々に衰退していきました。
その後「今まではどうだったか知らないけど、オレはキリスト教なんか嫌いだから!」と言い出す皇帝が出たり、”ゲルマン民族の大移動”と呼ばれる物騒なお引越しが始まった煽りを受けたり、皇帝自ら戦争に行ったら罠にかかって焼死したり(当然ボロ負け)と、ローマ帝国にとっては笑えない事態が続きます。
古今東西の例に漏れず、ローマ帝国も戦争で大きくなった国ですので、この敗北続きはかなり痛いものでした。

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やっぱり皇帝は強くなくちゃね!キャピ

そこで、「次の皇帝は戦に強い人がいい!」ということで、テオドシウス1世が選ばれました。
文民統治(軍のトップは文官=政治家がなる)の現代からすると恐ろしいと感じるかもしれませんが、当時の皇帝は上記の通り自ら戦場に出て行くものでしたので、特にローマ帝国の場合は軍人から皇帝になることは珍しくなかったのです。
この人は軍人だからこそ「いつも力づくでうまくいくとは限らない」ということがわかっていたようで、ゲルマン人に「ウチの兵士になってくれたら生活保障するよ」となだめすかして戦を止めさせることに成功します。
ゲルマンの人々も、元はといえば穏やかに生活できる場所を求めて大移動を繰り返していたので、これは大当たり。
ついでに息子を軍に取られたくないローマ帝国の人々も大喜びで、つかの間の平和が訪れます。

タモ○ミさん参考にしたら? 軍人だけど超やり手政治家

テオドシウス1世の時代には、ヨーロッパ諸国がキリスト教国となるきっかけになった事件もありました。
この頃キリスト教はさらに勢力を強めており、テオドシウス1世によってローマ帝国の国教とされたのです。
つまり「キリスト教を信じない奴はブッコロされて当然だからな!」という制度になってしまったということ。
現代は政教分離が進んでいるためこんなことはありませんが、こうした制度ができたため元々信仰されていたローマやその元になったギリシャの多神教が衰退していきます。

そしてギリシャ神話に登場する神々の一人・ゼウスの神殿に端を発する古代オリンピック(オリンピュアの祭典)も、この時代に廃止されてしまいました。
要するに、キリスト教以外の宗教にちょっとでも関係するものは全部ダメになったということです。
ヨーロッパの大部分を支配していたローマ帝国がこういう方針だったので、帝国が滅びるころにはすっかりキリスト教一色になっており、現代にも続いているんですね。

これは別にテオドシウス1世が格別信心深かったからではなく、既にキリスト教の聖職者が世俗における権力を確立し始めていたからという理由が大きいようです。
本来であれば「皇帝様が一番エラい!」な帝国の考え方と「神の前には皆平等!」なキリスト教が合致するのはおかしな話ですよね。
しかしローマ帝国では「その神様に認められたから皇帝様はエラいんだぞ!」という柔軟なのか屁理屈なのかわからない建前を掲げていたので、皇帝といえどもキリスト教のお偉いさんには頭が上がらなくなってしまいました。

世界の共通語「アッー!」で起きた大虐殺

それを最も表しているのが”テッサロニカの虐殺”といわれる事件への対応です。
この事件は元々ギリシャのテッサロニキという町で、キリスト教徒の一部が役人を殺してしまったことから始まります。きっかけはアッー!なことだったらしいんですが、英語の文献しかないので詳細がよくわかりません教えてエ□い人。
発端はどうあれ、役人が殺されたとなると皇帝としては放置できませんから、テオドシウス1世は軍を派遣して事を収めようとしました。

が、現地の部隊がヒャッハーしすぎてしまって虐殺同然の事態に陥ったため、それを知ったキリスト教のお偉いさんが「信者に何てことしてくれたんだバカヤロウ!皇帝が謝ってくるまで赦さないからな!!」とテオドシウス1世へ破門宣告を突きつけたのです。
日本人からすると破門ってしっくりきませんが、簡単に言うと「お前が神様からもらった権力無効だから!」という精神攻撃です。
しかもこの口撃、本人だけでなく市民や部下から「えーマジ破門!?」「キモーイ!」「破門が許されるのは(ry」というような扱いを受けるという極めて不名誉なものでした。
……真面目な話、この時代皇帝の位は世襲でもなんでもなく、ふさわしい人物を元老院(政治家)や市民(有力者や役人)が選んで認めるというアバウトかつ合理的な決め方をしていたので、神様から認められなくなったとなると一大事なのです。
そのため、テオドシウス1世は一度は抵抗するものの、最終的には膝を屈しました。

そうしたすったもんだを乗り越えたテオドシウス1世でしたが、今際の際に何を血迷ったのか「やっぱ一人で皇帝やるのツラいわ。お前達仲良く分けて頑張りなさい」と二人の息子を東西二つの国の皇帝にしてしまいます。
ちょっと前にディオクレティアヌスが似たようなことしたせいでドンパチが起きたことなど覚えていなかったようです。
この間100年くらいしか経ってないんですけどね……今で言えば、日本人が明治維新をキレイさっぱり忘れてもう一度鹿鳴館を作るようなものでしょうか。

アホボンの息子2人に帝国を半分こ

息子二人は互いに争うことこそありませんでしたが、それは両方ともアホの極みだったからであって、上手く統治できたわけではありません。
そして東西二つに分かれたまま、二度と一つの帝国になることはありませんでした。

二つに分かれた帝国。それでもめちゃでかい(Wikipediaより)

二つに分かれた帝国。それでもめちゃでかい(Wikipediaより)

ちなみにその後、二つの帝国はまったく違う道を辿ります。
西ローマ帝国はより無能だった弟のせいで、その後100年もせずに滅びてしまいました。
兄が継いだ東ローマ帝国のほうは王朝が変わってもう少しマシな皇帝が出てきたため、黒死病(ペスト)の大流行やモンゴル人の襲来などを乗り越えて1000年(!)ほど持ちこたえることができました。
こうなるとテオドシウス1世の方針は良かったのやら悪かったのやら。
まとめて滅びなかった分、プラマイゼロよりはややマシというところでしょうかね。

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長月七紀・記

 




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