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その日、歴史が動いた

悪党なのに正義!ルフィーのようにかっけー!楠木正成の千早城防衛戦はじまる【その日、歴史が動いた】

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有名な武将には何かしら戦の名前が連想される事が多いですよね。
源義経であれば一ノ谷(奇襲)・壇ノ浦(八艘飛び)、織田信長なら桶狭間や長篠、徳川家康だったら三方ヶ原と関ヶ原あたりでしょうか。
今日の主役にもそうした戦いが二つあります。

元弘三年(1333年)の閏2月5日、千早城の戦いが始まりました。
楠木正成が臨機応変な策で鎌倉幕府の軍を相手に善戦したということで有名ですね。
しかし、千早城だけだと面白さが半減してしまいますので、もう少し前の話から始めましょう。

赤坂城と千早城 3重の守り

千早城は山城なのですが、麓からここに来るまでの間に赤坂城という別の城がありました。
赤坂城はさらに上と下の二つに分かれており、山全体で捉えると、正成の城が三つあったことになります。
この時代まだ天守閣はありませんので、イメージ的には砦のほうが近いですけどね。

最初は下赤坂城で戦が始まりました。
正成一同はここでも約一月ほど戦いましたが、兵糧攻めにあったため持ちこたえることはできないと判断します。
しかしノコノコ出て行ったのでは首を刎ねられておしまいです。
そこで「楠木家は一家揃って自害した」と見せかけるために一計を案じました。
その方法は何かというと、「立っている者は親でも使え」ならぬ「死んでいる者は敵でも使え」でした。
なんと、小競り合いで死んだ敵兵の遺体を2~30ほど集め、赤坂城ごと火をかけたのです。
当然遺体は真っ黒焦げ、後から城の中を検分した幕府軍は「これは正成とその一族が自害し、火を放ったに違いない」と一人合点して引き上げます。

が、翌年正成は見事に復活(?)し、幕府軍の度肝を抜きます。
そして下赤坂城を奪い返しました。
ですが以前の戦いでここでは持ちこたえられないということはわかっていましたから、背後の千早城に移って再度幕府軍と戦う事にしたのです。

一度死んだはずの相手が出てきたとなると混乱するか怒り狂うかのどっちかですよね。
現代人であれば前者になるでしょうけれども、血の気の多い幕府軍は残念ながら後者ばかりでした。
「今度こそ正成の息の根を止めてくれる!」と逸って、一斉に千早城へ攻めかかります。

しかし、それこそ正成の思うツボ。
堀をよじ登ろうとされれば大石や丸太を落として邪魔をし、はしごをかけて橋を作り、堀を渡ろうとされれば油を撒いて火をつけるといったように、臨機応変な対応で敵を城内へ入れませんでした。
ついに直接乗り込むことを断念した幕府軍は、「なーに、ここは山奥なんだから、水源を押さえればそのうち勝てるさ」と下赤坂城のときと同じ手を使おうとします。

これには正成といえど手が出ない……と思いきや、「同じ手を何回もくらってたまるかい」とばかりに対策を整えていました。
千早城内には大きな木をくりぬいて作った水槽がたくさんあり、たっぷり水を汲んでおいたのです。
下赤坂城が落ちてから再び姿を現すまでの間に準備していたのでしょうね。
当然水で困るような事はなく、幕府軍の狙いは大ハズレ。

そうこうしている間に幕府軍の中から戦意喪失する者が出始め、さらには幕府方から裏切った足利尊氏が六波羅探題(京都にあった鎌倉幕府の出張所みたいなもの)が攻め落としたことで、もはや千早城や正成に構っている場合ではなくなりました。
そして5月10日、幕府軍は千早城の包囲を解いて撤退したのです。

この戦の記録には信憑性のあるものがなく、ハッキリした戦力差はわかりません。
太平記では楠木側が500~1000に対し、幕府軍は20万~100万というとんでもない数字が出ているくらいです。
多分楠木側はこのくらいだったでしょうが、幕府軍のほうはどう考えても盛りすぎです。
鎌倉時代の日本の人口はだいたい500~700万人くらいだったとされていますから、仮にこの半分が男性だったとしても、戦に行ける人数はもっと少なかったでしょう。
太平記は史書じゃなくて物語ですから、そもそも数字をアテにできるものではないんですけれども。

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いやーしかし「多勢に無勢」をひっくり返した戦の話はいつ見ても気分いいですね。
桶狭間のようにこの定説自体が否定されてしまうとカッコ悪くなってしまいますが、そもそも戦力が互角だったら攻城戦を選ばないでしょうから、多分大丈夫でしょう。……多分。
長月七紀・記




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