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その日、歴史が動いた

大塩平八郎の乱 あっさり鎮圧されたのはナゼなの?

更新日:

何をするにせよ、準備をするのは大切なことです。
遠足のおやつしかり受験勉強しかり、就職・転職や冠婚葬祭に至るまで、人生のイベントで準備が要らないものはほとんどないでしょう。
いかに頭が良く、人望があったとしても根回しがうまくいっていないと良い結果が出ないものです。
教科書で太字になっているあの事件も、準備の時点で失敗していたがためにたった半日で終わってしまいました。

天保八年(1837年)の2月19日、大塩平八郎の乱が起こり一瞬で鎮圧されました。

この乱が起きたきっかけは、江戸四大飢饉のひとつ・天保の大飢饉です。
「また飢饉の話か」というツッコミがどこかから聞こえてくるような気もしますが、ここらで一度江戸時代の大飢饉と歴史が動いたっぽい出来事をまとめておきましょうかね。

江戸四大飢饉と対応する事件まとめ

1、寛永の大飢饉
三代家光の時代、いろいろ禁止しまくったせいで武士が貧乏になる

2、享保の大飢饉
八代吉宗の時代、サツマイモが救荒作物として奨励される

3、天明の大飢饉
十代家治の時代、御所千度参り

4、天保の大飢饉
十一代家斉~十二代家慶の時代、大塩平八郎の乱 ←今日ここ

多分この四つが全部テストに出るとかいうことはないと思いますが、順番とそのときの将軍を覚えておくと学生の皆さんはラクになるんじゃないかと。
当コーナーは密かに歴史嫌いの皆さんを応援しております。

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景気悪いときにさらに消費減らす政策って中世かよ!→現代も?

さて、本題です。
江戸時代は上記のように飢饉が頻発していたわけですが、これに対して幕府の対策は基本的に「質素倹約!」一点張りでした。
米がダメになったときでも採れる作物を増やすとか奨励するということをしていなかったのです。
サツマイモは一時広まりましたが、全国で餓死者を防ぐほどの割合ではありませんでした。まあ確かに、毎日焼き芋とかふかし芋とか大学いもを食えと言われたらちょっとキツイですけども。米より日持ちもしませんし。

まだ科学が発達していない時代でもあり、天明の大飢饉のときは「田沼意次が悪政をしたから」という迷信が信じられていたくらいですから、「もう悪いヤツはいないんだから飢饉は起こらない!」と考えられていたのかもしれません。でも反省しなさ過ぎやろ。
天明と天保の飢饉の間は50年も開いていませんから、もしかすると両方経験した運の悪く生命力の強い御仁もいたかも?

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じゃあ、壊しておきますか 裕福な豪商の家でも

こうした幕府のダメっぷりに対し、庶民ができることといえば二つに一つ。
お上のいうことを聞いて耐え忍ぶか、裕福な商人を襲う「打ちこわし」をするかどちらかです。天保の大飢饉の際にも当然、打ちこわしは頻発しました。
この頃は米の買占め・専売によって荒稼ぎをしていたアホの見本のような商人がたくさんいたので、自業自得なんですけども。
とはいえあくまで抗議行動の一つなので、「建物を壊しても人には危害を加えない」という最低限のルールが定められており、放火もご法度でした。もし打ちこわしの度に放火までしていたら、江戸だけでなく京都や大阪でももっと火災が増えていたでしょうね。

しかし、ルールがあるとはいえ庶民の我慢にも限界があります。
天保の大飢饉の際は特に天下の台所大坂での被害が大きく、毎日数百人もの餓死者が出る有り様でした。
しかも理由の一つが「大坂より江戸が大事なんで、この米は江戸に送りますね。皆さん頑張ってください^^」というお役所仕事のせいだったというのですから始末に負えません。
ここで「だめだこいつはやくなんとかしないと」と思ったのが、元役人の大塩平八郎でした。

押尾学先輩立つ!(勝手に脳内変換中)

彼は現役時代からくそ真面目な役人として知られており、引退後は自力で陽明学を学び、私塾を開くなど徹頭徹尾おカタい人間でした。
陽明学とはものすごく簡単に言うと「人間は元々良い性質を持っているんだから、勉強してもっと良い人になろうね!」という考え方です。朱子学の「王様や世間のルールは絶対!身分制度バンザイ!」という主義に真っ向から反論するもので、当然幕府にとっては面白くないものでした。
どちらも大元は儒学なんですが、これだけ解釈の違いが出るのも面白いですね。
くそ真面目な平八郎が朱子学よりも陽明学を選んだのは、多分「仕事はちゃんとやるけど幕府は気に入らん」という理由だったのでしょう。引退後ならなおさらのことです。

ですがさすがにいきなりドスを持ち出したわけではなく、平八郎は当初現役時代のツテを辿って「地元が困ってんのに江戸を優先すんのはおかしな話とちゃうか」と意見を申し述べました。
が、「江戸に送ることになってるんで」というテンプレ通りの返答を聞き、ついに彼とその門下の人々はブチキレます。
元々「身分(ry」な朱子学嫌いが集まっていたところですから、お役所主義に対抗したくなるのもごく自然な話ですね。

嫁と離縁して決起じゃあ!

平八郎の蔵書を売り払って資金を作り、貧しい人々の救済を始めましたがとても追いつかず、やむなく武装蜂起をすることになりました。
決起の前には家族が罪をかぶることのないように離縁し、家財を売却することによって武器防具の類を調えたそうですから、まさに決死の覚悟だったのでしょう。

が、この緊迫した状況に耐えられなかったのか、それとも最初からスパイが入り込んでいたのか、この決起は実行直前に当局へバレてしまいます。
平八郎たちは当初の計画を変更せざるを得なくなり、実際のドンパチは半日程度で鎮圧され、40日ほど逃げ回ったもののついに自決に至りました。平八郎は養子と共に火薬を使っての爆死を選び、顔の判別もつかないほどだったそうです。
爆死というと松永久秀ですが、大塩平八郎親子も同じ死に方をしていたとは意外ですね。性格と経緯は全然違いますけど。

内通者についてはハッキリしたことがわかっていませんが、もしかすると平八郎の性格についていけないと思った人が耐えかねて寝返ったのかもしれません。
というのも、平八郎の性格が生真面目どころではなく厳格すぎたという話がいくつも伝わっているのです。
・学者仲間の頼山陽からは「君は短気すぎるから、刀を持ち歩くのは止めたほうがいい」(意訳)と忠告された
・朝の五時から講義を始めていた
・しかも講義のときは門下生が目を合わせられないほど怖かった

……等々、普通の人なら一つだけでも裸足で逃げ出したくなるような特徴を兼ね備えていたというのですから、途中でイヤになった人がいても不思議ではありません。
事を成すためには、お金や家族だけでなく人心掌握も大切だということですね。

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長月七紀・記

 




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