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オソロシアを統べるにはちょっと恐ろしさが足りない風貌(Wikipediaより)

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その日、歴史が動いた ロシア

ロシアの皇帝・ピョートル3世 母にも嫁にも国からも見捨てられたドイツかぶれの王様

更新日:

 

結婚後の火種にもいろいろありますが、一番デカいのは自分の実家をひいきしすぎることではないでしょうか。
旦那さんが奥さんではなく姑(自分の母親)を優先しすぎたり、逆に奥さんが自分の実家に入りびたりだったりと、ソレ結婚した意味あるの?と言われても仕方のない状態になるともう手がつけられません。
こと権力の大きい王侯貴族において、これをやってしまうと一気に身の破滅へ爆走してしまいます。
ほとんどの人はそんな目に遭わないよう気をつけていましたが、こればかりでなく他の悪条件まで招き寄せてしまった人もいました。

1728年(日本では享保十三年)のあす2月21日、ロシアの皇帝・ピョートル3世が生まれました。

エカチェリーナ2世の旦那さんですが、皇帝の位にいたのはたったの半年。きのう登場のジェーン・グレイよりはマシとはいえ、その原因が自分の行動にあるのですからまさに自業自得ともいえます。
彼の生い立ちはかなり複雑で、夫婦ともども途中で名前が変わるのですがめんど……わかりづらいので最初からピョートルとエカチェリーナでいきますね。

 

母ちゃんがロシア皇帝の血筋だったために・・・

オソロシアを統べるにはちょっと恐ろしさが足りない風貌(Wikipediaより)

オソロシアを統べるにはちょっと恐ろしさが足りない風貌(Wikipediaより)

ピョートル3世は神聖ローマ帝国(ドイツの素)の北のはずれにあった、シュレースヴィヒ=ホルシュタイン公国(ホルスタイン牛のふるさと)という舌を噛みそうな名前の国で生まれました。

神聖ローマ帝国はこの頃「帝国の中に国がたくさんある」状態になっていたので、大まかに見れば神聖ローマ帝国出身ということになります。

ここはデンマークとドイツの境目あたりで、王様同士に血縁もあり、極めて複雑な家庭環境でした。

しかし教育や文化、宗教はドイツのものだったので、ピョートル3世はドイツ人として育ちます。

その彼がなぜロシアの皇帝になったのかというと、母親がピョートル1世(大帝)の娘だったからです。

祖父ピョートル大帝(1世)は強そうなのに(Wiki)

そしてこの頃皇帝だったエリザヴェータはその妹でした。彼女には子供がいなかったので、血縁的に近いピョートル3世を後継者に指名し、ロシアへ呼び寄せたのです。

ピョートル3世が14歳のときでした。

ロシアで暮らすにあたって、ピョートル3世はプロテスタントからロシア正教に改宗し、名前もそれまでのドイツ風からロシア風に変えるところまでは迎合しましたが、それ以外は依然としてドイツ人気分のままでした。

特にエカチェリーナ2世と結婚してからは顕著になります。彼女も神聖ローマ帝国出身でしたが、ロシア語を積極的に学び、ロシア文化へ溶け込むための努力を重ねて周囲に認められていきました。しかしピョートル3世はそういうことをしなかったため、違いが浮き彫りになってしまったのです。

当然、もともと良くなかった夫婦仲は冷え切り、二人とも愛人を作って修復不可能な状態にまで陥りました。

奥様のエカチェリーナ2世(Wiki)

 

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王室の後継者は嫁の浮気相手の子供???

おばのエリザヴェータ女帝

エリザヴェータ女帝はこの二人を仲裁するかと思いきや、後継者さえいればいいという主義だったようで特に口を挟みませんでした。

エカチェリーナ2世が男の子(後のパーヴェル1世)を産んだとき、父親は愛人の可能性が高かったといわれているのですが、それも気にせず手元へ引き取って育てています。形だけでも後継者夫婦の息子なら構わないと思っていたのでしょう。

そのせいでエカチェリーナ2世とパーヴェル1世の仲は実の親子とは思えないほど冷え切るんですが、まあそれは別の機会に。

そしてエリザヴェータが亡くなった後ピョートル3世が即位。しかし妻にも貴族にも人望のなかった彼は、相変わらずドイツひいきをし続けます。

そして決定的にまずかったのが、エリザヴェータが始めた戦争を独断で講和してしまったことです。

戦争の相手は、当時神聖ローマ帝国内で最も強い国だったプロイセン王国でした。

だいたい現在のドイツとロシアの間あたりにあった国で、それゆえに三十年戦争での被害が少なく、この時期台頭してきていたのです。

当時の王様は”大王”と称されたフリードリヒ2世で、ドイツびいきのピョートル3世が最も心酔している人物でした。

フリードリヒ2世はとにかく戦争に強かったので、単純に憧れたのでしょうね。

30年戦争(Wiki)

 

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あと一歩で勝利だったのに・・・勝手に戦争を終結

このときの戦争は後々「七年戦争」と呼ばれるもので、単純なロシアvsプロイセンの戦争ではありませんでした。

火種は神聖ローマ帝国内の皇帝位に関する問題だったため、ハプスブルク家vsプロイセンの戦争だったのです。しかしハプスブルク家は優秀な軍人がおらず、士気も指揮もプロイセンには及ばなかったため、フランスとロシアに同盟を持ちかけての戦いでした。

ハプスブルク家・フランス・ロシアvsプロイセンという構図ですね。

七年戦争(Wikipediaより)

余談ですが、この同盟が結ばれたとき各国の実質的なトップが全員女性だったため、「ペチコート同盟」というよくわからん異名がついています。ペチコート同盟という名前はテストに出ませんが、女性たちの名前は覚えておくといいかもしれませんのでついでに書いておきましょう。

◆七年戦争時、ペチコート同盟の内訳
【ロシア】 エリザヴェータ(女帝)
【フランス】 ポンパドゥール夫人(王様の愛人でやり手政治家)
【ハプスブルク家】 マリア・テレジア(実質女帝、マリー・アントワネットのカーチャン)

さしものフリードリヒ2世も三カ国の大軍相手には苦戦を強いられ、あと一歩で首都ベルリンがロシア軍に落とされるところまで追い詰められます。

が、このタイミングで同盟軍がケンカした上エリザヴェータが亡くなり、ピョートル3世が「ワタシはアナタを尊敬しているので戦争止めます!賠償金も請求しません!これから仲良くしてください!!」と言い出したため、プロイセンは助かり最終的な勝者になりました。

 

軟禁後1週間ほどで謎の急死 誰の目にも原因は明らか

一方、勝手に「一抜けた!」をやらかしたピョートル3世へは、ハプスブルク家からもフランスからもロシア国内からも大ブーイングが巻き起こります。

特に国内からの反発はすさまじく、「もうアイツどうしようもないから(ピー)して、エカチェリーナ様に皇帝になってもらおう!」という動きが加速し、クーデターを起こされてピョートル3世は廃位されてしまいました。代わってエカチェリーナ2世が即位し、ロシア帝国は発展していきます。

ピョートル3世は一旦軟禁され命は助かったものの、1週間ほどで急死。公式には持病の悪化と発表されましたが、誰の目にも殺されたことは明らかでした。

エカチェリーナ2世が関与していたかどうかは不明ですが、彼女ならもっと自然な形に見せかけたでしょうから、焦った誰かが勢い余って殺してしまったのでしょうね。

この他種無しだったとか幼稚すぎたとかいろいろ悪評もあるんですが、これについてはクーデターを正当化するためにエカチェリーナ2世側があれこれ言った可能性も高いので、全てが真実とは限りません。それでもドイツ(プロイセン)の肩を持ちすぎたのは事実ですし。

昨日ご紹介したエドワード6世は本人以外の要因が重なりすぎて不幸な一生になりましたが、ピョートル3世は自ら不幸のズンドコへ邁進してしまった形になります。

もし彼がピョートル3世の生涯を知ったら「テメー恵まれてたくせにアホすぎんだろ!」と怒るでしょうね。

長月 七紀・記

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【参考】ピョートル3世/wikipedia

 




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