解体新書の杉田玄白 解剖を見て「いいね!」【その日、歴史が動いた】

本日は少々グロいお話のため、臓物などスプラッタが極端に苦手な方はお読みいただかないほうがいいかもしれません。

血生臭いどころでなくオカルトめいた話もありますので、そっち方面がダメな方もどうぞ他の記事かググる先生のところへレッツ退避グッド退避。

大丈夫ですか?
本当にいいですね?
後悔しませんね?
(このネタがわかった方はきっと同世代)

解剖に「感動した!」

杉田玄白像。解剖後の玄白さんだと思っていた人いる?(Wikipedia)

明和八年(1771年)の3月4日、杉田玄白らが刑死者の腑分け(解剖)を見学しました。
現在の医大でも慣れないとキツイと言われていますし、まして当時は技術も未発達ですから色々ドン引きだったかと思いきや、玄白たちは口をそろえて「感動した!」という態度を示しています。
というのも、日本では人間の体に外科的な処置をするという概念があまりなかったからです。

ただし江戸時代には、あまり表立っては言えないような目的のため遺体に手を加える人々がいました。
当時刑死者の遺体は穢れとされていて、普通の人は触れません。ということは、誰か専門家がいるということになりますよね。処刑を始めとした、そういう仕事を代々やるように幕府から命じられている家があったのです。
しかし収入がよくないため、お役目だけではなかなか生活が苦しかったのだとか。補おうにも、本業をおろそかにしてはお咎めを食らってしまいます。

人間の体をクスリに…

そこで彼らが考えたのは、本業で触れるものを利用して副収入を得ることでした。
つまり、刑死者の遺体を何かに使えないかと考えたのです。
当時人間の臓器は薬の原料になるとされていたのですが、まさか一般人の遺体からもらってくるわけにはいきません。罪状にもよりますが、刑死者の遺体だと遺族の引き取りは許されないことが多かったので、処刑人たちにとっては本業をきちんとこなしつつ、副業もできるという一石二鳥の方法でした。

そのため、彼らは一般人や医師ができない腑分けを日常的に行っていたのです。遺体の用途としては刀の試し切りなどもありましたが、それに向かないものを腑分けの対象にしたのでは?とされています。試し切りは本業のうちに入っていたので、それをちょろまかすとマズイわけです。

死刑場のお役人は当然この副業について知っており、お上にバレたらただではすまないことも理解していましたが、あえて見て見ぬフリをしていたとか。彼らの困窮振りをわかっていたのでしょうね。

初の解剖は杉田玄白たちではなかった

しかし、本来はダメなはずの腑分けを幕府公認の医師が行うこともありました。
はっきりした記録が残っていないので詳細は不明だそうですが、外部に漏らさないため口頭での報告にしたか、文書を処分したのでしょう。
杉田玄白と前野良沢、中川淳庵らが見学したのは医師が手がけたほうの腑分けであること、そして医師による腑分けが初めてではないことだけわかっていて、医師の名前すら「何某」とぼかされているくらいです。

「解体新書」翻訳すすめる

翻訳もさることながら絵も上手(解体新書の複製、Wikipediaより)

さて、玄白らは後に翻訳することになるオランダの医学書「ターヘル・アナトミア」を片手に臓器の説明を受け、その正確さに舌を巻きます。
この頃は鎖国状態であり、幕府がいい顔をしていたわけではないので、ヨーロッパの学問はあまり広まっていませんでした。八代吉宗が禁制を緩めてからはマシになったものの、まだまだ追いついたとはいえない状況です。
医学もその例外ではなく、いわゆる「五臓六腑」が基本で、各所に対応した陰陽の気を調えることによって治療をするというのが主流でした。
五臓六腑とは中国(東洋)医学で人間の内臓を示す言葉で、体の働きから臓器を分類するという考え方です。が、不思議なことに全部が間違っているわけでもないので、長く日本でも信じられてきました。最近はこの言葉こそ聞かないものの、漢方薬などには名残が見られます。
といっても、漢方薬が日本人に効くのは、西洋人の作った西洋の材料で作った薬より、同じアジア人がアジアにある材料で作ったもののほうが体質的に合う可能性が高いということなのでしょうけども。

話を元に戻しまして、玄白たちは「これだけ正確なら、東洋医学でできないことが西洋医学でできるかもしれない。なぜお上は広めようとしないのだろう?」と疑問を抱いたことでしょう。

しかし表立っての批判はできませんから、彼らは違う方法で西洋医学の普及を目指します。それが「ターヘル・アナトミア」の和訳だったのです。
とはいえ、当時オランダ語は前人未踏の地にも等しい言語。長崎の通詞(翻訳者)ならわかりますが、玄白らは江戸にいたのでそう頻繁に連絡を取ることは不可能です。

良沢だけはいくらか心得がありましたが、本一冊、しかも医学書をスラスラ訳せるほどの知識はありませんでした。感覚としては「6年間英語を習って得意な教科になっても、英語の小説を原文で読める日本人は早々いない」のと似たような感覚でしょうか。ちょっと親近感。

そのため、翻訳というより暗号解読に近いような手段で読解を進めたのが教科書で必ず出てくる「解体新書」です。
何せ初めての試みだったため誤訳も多かったそうですが、体組織を表すための新しい言葉を生み出したこと、オランダ語の理解が通詞以外にも広まるきっかけになったことはまさに「歴史が動いた」出来事だといえます。
ちなみに誤訳については半世紀ほど後に玄白の弟子・大槻玄沢(げんたく)が重訂版を出し、概ね解決されています。

このままオランダ語をはじめとした西洋の文物を積極的に取り入れていれば江戸時代の寿命は延びたのでしょうが、皆さんご存知の通りそううまくは行きませんでした。

解体新書が刊行されてからおよそ100年後、諸国からの開国要求などにより「西洋の学問は危険」と判断した幕府は、これを取り締まって物理的だけでなく精神的なひきこもりも推奨します。

大昔日本は中国から漢字その他いろいろを伝えられて文化を発展させてきたんですから、その延長と考えれば良かったものを……。ある程度歳を重ねると新しいものを受け付けず、意固地になって自説に固執しやすくなるのは個人だけでなく国家も同じようです。若いときにアレコレやりたい放題だった人が、歳を重ねて(体型以外も)丸くなることもありますけども。

結局開国を受け入れてからは「洋学」として西洋へ留学生を送り出すのですが、その頃には幕府そのものの存続が危うくなっていました。
当然学問を推奨するどころではなく、西洋の知識を豊富に持った人材が頻出・活躍するのは明治時代のことです。
ゆうに100年はチャンスを逃してしまったわけですから、列強へ対抗するため明治政府があれほど「西洋に追いつけ追い越せ」というスタンスになったのもむべなるかなというところですね。
鹿鳴館などでアレコレ失笑を買ったのはまあご愛嬌です。

長月 七紀・記

参考:http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/03/post_2cb5.html
   http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/igakukai/84-5-221.pdf
   http://mitizane.ll.chiba-u.jp/metadb/up/igakukai/84-1-7.pdf


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コメント

    • uu
    • 2015年 8月 19日

    ううっふうん

    • ぽいぽい
    • 2014年 7月 29日

    蘭学事始めによると、玄白たちが見学した腑分けは、当初、被差別身分の虎松という人が行うことになっていたが、彼が急に体調を壊したので、その祖父である90歳の老人が行ったそうです。あなたが書いているような「医師」が行ったのではありません。玄白たちはその老人が腑分けして示す臓器とターヘル・アナトミアの記述がぴったり一致することに自信を持ち、翻訳に取り掛かったとされています。

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