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その日、歴史が動いた

19世紀までバラバラだったイタリア 如何にしてマトまっていったか?

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栄枯盛衰は平家に限らず、個人や国にとって避けて通れない道です。
四大文明発祥の地が必ずしも現在の最先進国ではないことを見るとよくわかる気がします。そしてこれはもちろん、かつて地球最大の帝国の地盤となっていたあの国も例外ではありません。

1820年(日本では仁孝三年)のあす3月14日、イタリアを統一したヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が誕生しました。

カップル爆誕のホワイトデーというあたりが何ともイタリア人らしいかと思いきや、そもそもホワイトデーは日本と東アジアくらいしかやってないので関係ないですね。
例によって「誰それ」「教科書で見たかもしれない」という声が聞こえてくる気がしますので、恒例のテキトーなまとめから始めましょう。

 

ローマ帝国の栄光の残滓、って言ったら怒られる?

イタリアの歴史といえばローマ帝国ですが、実はその前から都市ができていました。
伝説では木馬とウイルスで有名なトロイア戦争(紀元前1200年ごろ)に負けて逃げてきたアイネイアスという人物の子孫がローマ人であり、紀元前753年にロムルスとレムスという兄弟がローマの街を作り始めたといわれています。
王政を経て共和制になり、この頃既に貴族・政治家・元老院などのシステムがありました。特筆すべきは、紀元前から市民の集会が存在しており、この会が元老院への発言権を持っていたことです。
ものすごく大雑把に言えば「紀元前から民主主義の概念があった」ということですね。イタリアすげえ。
そして周辺にできた都市国家とドンパチをしたり保護下に置いたりして、徐々に版図を広げていきました。

そしてユリウス・カエサル(英語読みジュリアス・シーザー)が登場、終身独裁官としてほぼ皇帝と同様の立場になりましたが、あまりにも急なことだったので反発を招き、かつての部下達によって暗殺されてしまいます。
このときのセリフが有名な「ブルータスよ、お前もか」です(ブルータスはマルクス・ユニウス・ブルトゥスという人物の英語読み)
カエサルの死後、義理の息子・アウグストゥス(初名はオクタウィアヌス)が国内を取りまとめてローマ帝国の礎を作りました。実質的には皇帝だったので、彼を初代ローマ皇帝としていることが多いですね。
ここから東西までの分裂と滅亡については以前書いていますので、お手数ですがそちらをお読みいただければ幸いです。→ホントだって!世界がまじで動いた、とあるローマ皇帝の死【その日、歴史が動いた】

その後の戦争によってイタリア半島は先進国から一地方都市同然の地位にまで転落してしまいました。
あっちこっちの民族から絶えずつつかれ続けたため、同族でまとまるヒマもなく、小さな国ができては周辺の大国に吸収されるという時代が長く続きます。
ローマ帝国分裂の後、1000年近く世界史の教科書に出てこないのはこの辺の経緯がややこしすぎるからというのが一番の理由なんでしょうね。

 

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メディチ家も半島すべてを征服できず

その1000年後がだいたいルネッサンス期で、先日登場したミケランジェロやレオナルド・ダ・ヴィンチ、メディチ家などのビッグネームが登場します。この頃には既に有力な都市国家が確立していたものの、やっぱりごちゃごちゃしているので芸術方面の話しか出てこないですよね。
ローマはもちろん、フィレンツェやヴェネツィアといった現在イタリアの主要な観光地になっている都市は、元は一つ一つ独立した国だったと考えればわかりやすいかもしれません。
中でもヴェネツィアは海洋国家として最も長く続き、18世紀にナポレオンへ降伏するまで「アドリア海の女王」として名を馳せていました。

しかし、16世紀のイタリア戦争によってイタリア全土が大国の戦場になってしまいます。
これは神聖ローマ帝国の主になっていたハプスブルク家と、当時フランス王家だったヴァロワ家がイタリアを取り合って起きたもので、半世紀近く続きました。これによりイタリアは概ね3つに分断されてしまいます。
大雑把にいうと北部はオーストリア(ハプスブルク家)、南部はスペインに支配され、ローマ周辺は教皇庁の直轄領になりました。
国土の荒廃と外国からの支配は長く尾を引き、少しずつ「イタリア人」という意識が薄れていきます。

ですが、フランス革命によってヨーロッパ各地で民族意識の再興が起こると、イタリアもこの影響を受けて「俺達まとまろうぜ!」と考える人々が出てき始めました。
イタリア北西部とサルデーニャ島を治めていたサルデーニャ王国へ秘密結社カルボナリが働きかけ、以降この王国が先導するような形で統一への流れができていきます。
ちなみにカルボナーラの語源はこの人たちではありません(ガチで)

 

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エマニエルだから女と思ったら男だった

……というところで生まれたのがヴィットーリオ・エマヌエーレ2世です。

Wikipediaより

この王様個人の話はあまり伝わっておらず、ほとんどイタリア統一の話になってしまうのですがあしからずご了承ください。
個人名でググっても、名前のついた観光地とかそこが恋のパワースポットになってる話しか出てこないんですよね(´・ω・`)それでいいのかイタリア人……いいのか。イタリアだもんな。

現在でこそ「11人以上になると(サッカー以外じゃ)勝てない」「ベストオブヘタレ」「こっちくんな」扱いのイタリアですが、このあたりで出てくる人は皆かなりの男前です。いろんな意味で。
肖像画並べるとどいつもこいつもイケメンすぎて区別がつかな……見分けるのが大変ですが、学生の皆さんは覚えておいて損はないかと。ややこしいので先にまとめておきましょうか。

まず、メガネかけてる太ったシューベルトみたいな人が首相カミッロ・カヴール。

シューベルトじゃない(Wikipediaより)

一番ヒゲが濃くて真っ赤なシャツを着た人が英雄ジュゼッペ・ガリバルディ。

ゼータガンダムにでたような名前(Wikipedia)

そして、日本髪の真ん中を取ったような不思議な髪型の人が国王ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世です。
※イタリアの方々を侮辱する意図はありませんのでよろしくお願いします

では、そろそろ本題に入りましょう。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は、サルデーニャ王家の分家筋に生まれました。
しかし本家に跡継ぎがいなくなってしまったため、まず彼の父親カルロ・アルベルトがサルデーニャ王位を継承します。
この頃ヨーロッパはどういう時期だったかというと、フランス革命が終わり、ナポレオンが出てきたと思ったら退場。どこの国でも王政への疑念や民族主義が芽生えてしっちゃかめっちゃか、会議どころか大陸中がダンシング状態でした。
火元のフランスはもちろん、アオリを受けたのはオーストリアです。

上記の通りオーストリアは北イタリアの大部分を支配していましたので、イタリアに独立されるとえらいこっちゃなわけです。その懸念は現実のものとなり、かつての「女王」ヴェネツィア周辺がまず蜂起しました。
当初はローマ教皇を旗頭にしたかったのですが、当時その座にあったピウス9世は「カトリック同士だし、世俗のことに教会が入らなくてもいいよね!」と言いだしたため失敗。
さらに悪いことに、両シチリア王国が地元の反乱を収めるため撤退。その上戦争そのものにも負け、この第一次イタリア統一戦争は進展したのかしてないのかよくわからないまま終わります。
イタリア市民から見て唯一はっきりしたのは、「教皇は自分達を助けてくれない。今一番アテになりそうなのはサルデーニャ王国だ」ということでした。

そのサルデーニャ王国では、敗戦した責任を取ってカルロ・アルベルトが(イヤイヤながらに)退位。代わってヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が即位、まずシューベ……カヴールを首相に任じ、統一のため外交を推し進めるよう命じます。
カヴールとイタリアにとっては幸運なことに、この頃東のほうではロシアとオスマン帝国がぶつかり合ってクリミア戦争が起きていました。
当時の滅茶苦茶なヨーロッパで、国境を越えて団結する理由としては最適です。何せ、ロシアの南下はロシア以外誰も得をしませんからね。

どちらかというとイタリアはオスマン帝国との因縁がデカイんですけども、カヴールは「ンなこと言ってる場合か!今が恩の売り時じゃい!!」と一蹴し、オスマン帝国とその味方についたイギリス・フランスが疲弊したところへ颯爽と無傷の援軍を送りつけ、見事英仏両国と交渉の糸口をつかみます。キャーカヴールサンカッコイー!
特に、ナポレオンがいなくなったとはいえ大国であり続けていたフランスとは、「ウチの領地ちょっとだけさしあげますんで、オーストリアと戦うときにはよろしく」という約定を交わしました。

これが面白くないのはあっちこっちで戦争に参加していたガリバルディです。
なぜかというと、この「ちょっと」の中に彼の出身地・ニッツァ(現フランス領・ニース)が含まれていたからです。
しかし彼は大人だったので、途中で不穏な空気をかもし出したりはしたものの、私憤に囚われ続けはせずイタリア統一のため働きました。カッコイイ。

そして第二次イタリア統一戦争が勃発。
これはサルデーニャ軍7万+フランス軍15万vsオーストリア軍24万の大規模な戦争で、最大の激戦地ソルフェリーノでは両軍合わせた死傷者・行方不明者は4万を超えたほどでした。
勝ったのはサルデーニャ(+フランス)でしたが、オーストリアもまだイタリアを手放す気はないので、要求は受け入れられません。
また進展ナシかと思いきや、このときは二つの点でイタリア統一へのコマが進みます。

一つは、諸々の理由でフランスがイタリア方面から手を引くと言い出したこと。
もう一つは、イタリア内の他の国で「やっぱよそ者をアテにしちゃいけねえ!やろうぜお前ら!」という機運が高まり、サルデーニャ王国周辺から少しずつイタリア統一の兆しが見えてきたことです。
後者についてはフランスが「ウチそんなこと聞いてませんけど!っていうかアンタらが新たな大国になると迷惑なんですけど!」と自己中以外の何者でもない言いがかりをつけてきましたが、ニッツァとサヴォイア(現フランス領・サヴォワ)を割譲することで丸め込みました。

話だけでなく本当に故郷が他国のものになってしまったガリバルディは機嫌を損ねたものの、彼は大人だったので(ry
その代わり、イタリア南部の両シチリア王国で起きた蜂起を鎮圧しようと、独断で千人隊(赤シャツ隊)を率いて現地に向かいます。よそ者の登場で混乱するかと思いきや、実戦経験豊富なガリバルディはあっさりこれを収め、ついでにナポリへ向かってサルデーニャ王国本体とは別の路線からアプローチしていきました。
言葉より行動でガリバルディの意図を感じ取ったのか、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世も軍を率いて南下し、合流を目指します。

そして両者はイタリア中部のテアーノという街で会談を持ちました。テアーノの握手と呼ばれる出来事です。
ここで空気を読んだガリバルディが「諸君、ここにイタリア王がおられるぞ!」と発言、それまでに得ていた南部諸地域を差し出し、めでたくイタリアのほとんどが統一された……という美談と絵画が伝わっていますが、現実にはもっと冷淡なものだったようです。
ガリバルディの熱意と能力は本物ですけれど、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世やサルデーニャ王国のお偉いさんからすれば「勝手に出て行ってドンパチやってた」としか思えないですからねえ。

こうして西ローマ帝国が滅亡してから約1200年ぶりに長靴半島は一つの国になったのですが、この時点ではまだ現在のイタリア共和国と同じ範囲にはなっていませんでした。首都もフィレンツェでしたしね。
ヴェネツィアを中心としたヴェネト地方など「未回収のイタリア」と呼ばれるあたりはまだオーストリアの勢力下だったのです。
ここで再びオーストリア……とその戦争相手であるプロイセンが絡んできます。

自分達中心にドイツ民族を統一したいプロイセンは、かつて神聖ローマ帝国の盟主であったオーストリアが鬱陶しかったので、その力を削ぐとっかかりを探していました。オーストリアも神聖(ry)がなくなったとはいえ、黙ってやられるわけにはいきませんから、やっぱり戦争になったのです。
ちなみにこの二国間で戦争になるのは約120年の間で3回目だったりして、もうちょっと話し合いとか平和的解決とか努力しようぜ。

 

ようやくオーストリア帝国から脱出

が、イタリアにとってはオーストリアの支配から脱する絶好のチャンスでした。
「オーストリアをボコってヴェネト地方を取り戻したいんで、プロイセンさんとこにつきたいんですが」「おk」ということでイタリアとプロイセンの同盟が結ばれ、第三次イタリア統一戦争が起こります。
このときガリバルディはもはや王国に戻るつもりがなかったのか、別働隊で参戦しました。イタリア王国軍が負けた後も奮戦し、オーストリア軍を破ったのはガリバルディの隊だったというのがなんとも皮肉な話です。
でも、イタリア統一から第三次イタリア統一戦争までは5年しか経っていないので、最初から無茶な話ではあったんですよね。

この戦いはプロイセンが「もうここらで勘弁してやっか」というタイミングで講和を結んだため、第一次・第二次の統一戦争時よりも比較的あっさり終わります。
負けたオーストリアは「ヴェネト地方をイタリアへ返すこと」を含んだプロイセンの要求を飲まざるを得なくなり、当初の目的は達成されました。ちなみにオーストリアがプロイセンに負けるのも3回目です。だから話し合えって。
しかしまだまだ「未回収のイタリア」は残っており、これは第一次大戦まで尾を引くことになります。
このとき1866年ですから、半世紀もの間領土問題を残したままだったんですね。

さて、イタリアの首都といえばローマですが、この頃はまだピウス9世が頑張っていたので、なかなかうまくいきませんでした。
すっかり険悪な仲になってしまったヴィットーリオ・エマヌエーレ2世とガリバルディでしたが、二人の間で珍しく意見が一致していたのがローマをイタリアの首都にすること。
ガリバルディは教皇があまりにも非協力的なことに対してブチキレていたので、またも単独で占領を試みますが、ピウス9世がフランスに泣きついたため失敗してしまいます。
しかし、数年後プロイセンがフランスにケンカを吹っかけたことでフランス軍は帰国せざるを得なくなり、教皇の周りはガラ空き同然になりました。とはいえフランス軍がとんぼ返りしてきたらひとたまりもないですから、イタリア軍は充分に機会を見計らってローマを占拠します。

イタリア軍側としては教皇をブッコロすわけにもいきませんので「もうそろそろ仲良くしませんか」とも言ったものの、ピウス9世はだだをこね続け「私はバチカンの囚人である」という(°Д°)ハァ?としか反応しようがない言葉を発表します。
訳すと「信徒に裏切られた私チョーかわいそう!何も間違ってないのに!!」程度のものですから、後世から見るとお前は何を言っているんだとしか。そろそろ罰当たればいいのに。
でもこの人列福(カトリックで聖人の次にエライ人のこと)されてるんですよねえ。ワケワカメ。

これには放置プレイが唯一の対策であると決めたイタリア王国は、儀礼的なもの以外の接触を止め、正式に首都をフィレンツェからローマに移します。
ここにイタリア統一運動=リソルジメントは終わりを迎えました。めでたしめでたし。

その後中心になった二人はどうしたのかというと、最終的には似たような感じでした。一緒に行動していたわけではないですが。
ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世は戦争ばかりで疲れたのか、そろそろ体にガタがきたのか、その後は議会の監督など大人しい仕事をしていました。
ガリバルディは別の戦争に参加したりもしたものの、最終的にはカプレーラ島という島に隠棲し、穏やかな生活をしていたそうです。
わだかまりを抱えたまま分かれるような形になった二人でしたが、ヴィットーリオ・エマヌエーレ2世が亡くなった後に即位した息子のウンベルト1世はガリバルディの葬儀を盛大に執り行っているので、少なくとも国王のほうは感謝の念を持っていたかと思われます。

たとえ方針が気に食わなくても、母国統一のために協力し合った姿はまさに大人の対応といえるもので、ヴォルテール先生の「あなたの意見には反対だが、あなたがそれを主張する権利は命をかけて守る」(ただし原典は不明)にも似ている気がします。
イギリスを(海賊)紳士の国とするならば、イタリアは「大人の国」というところですかね。いろんな意味で。

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長月 七紀・記

 




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