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鈴木貫太郎(Wikipediaより)

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その日、歴史が動いた

軍人と侍従と首相をやった 歩く近現代史 鈴木貫太郎とは【その日、歴史が動いた】

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その日、歴史が動いた

受験などでは、あまりにも覚えさせられることが多すぎて実感のわかない人が多いかもしれませんが、明治・大正・昭和の三年号は実は120年ほどしかありません。
西暦を見れば当たり前ですし、比較的最近まで明治生まれの方がご存命だったことを考えれば「何を今更」という話ではあるのですが。
となると、当然この時期に起きた歴史的な出来事を全て体験した世代もいたということになります。
その中には、平成生まれどころか戦後生まれには想像もつかないような過酷な運命をたどった方がいました。

昭和二十三年(1948年)のあす4月17日に亡くなった、鈴木貫太郎という人です。
「第二次大戦が終わったときの総理大臣」として覚えている方が多いでしょうかね、
もちろんそれも重要なことなのですが、彼の生涯はまさに近代日本の縮図といってもいいような流れをたどっています。

鈴木貫太郎(Wikipediaより)

鈴木貫太郎(Wikipediaより)

鈴木が生まれたのは慶応三年(1868年)、江戸幕府が終わろうとしていた年でした。
家は関宿藩(せきやどはん。現・千葉県野田市の北端)の代官をやっていたので、大名ではないにしろそこそこいい身分といっていいでしょう。
が、これが鈴木にとっては仇になってしまいます。
というのも、関宿藩は交通の要衝であったことから代々譜代大名が治めることになっており、当然明治新政府からは「関宿の出=旧幕府の手先」のような見方をされていたからです。
鈴木が生まれた年からして、幕府のご恩が云々という意識が強かったわけはないのですが、海軍に入ってからなんやかんやと言われたとか。鈴木としてはさぞ「知らんがな(´・ω・`)」と言いたくなったことでしょう。
「派閥なんて下らないモンだ」って聖徳太子も言ってるのに、近代化を謳う明治の軍隊がそれで良かったんですかね。

進級その他でうんざりするほどの差別を受けた鈴木は一度海軍をやめようとしますが、折りしも時は日清戦争直後・日露戦争の直前でした。
北の大国と一戦交えそうだという空気は国内でも日に日に強まっていたらしく、地元の父親から「軍に入ったからには、国を守るためにしっかり働け」という手紙が届き、鈴木は辞職を取りやめます。

そして父の言いつけ通り、鈴木はより気合を入れて日露戦争に望みました。
部下から「鬼の貫太郎」「鬼の艇長(船長)」「鬼貫」と恐れられるほどの猛訓練の末、日本海海戦を勝利に導きます。
鬼鬼言い過ぎな気もしますが、他に形容詞が思いつかないくらいおっかなかったんでしょうね。普段は温厚な人だったようですし。

日露戦争後はドイツへ駐在員として赴任し、贈賄事件の後処理に当たりました。
この頃には偏見の目で見られることもなくなっていたようで、順調に出世していきます。

天皇の侍従に 2・26事件で瀕死

そして時は流れ、昭和四年(1929年)。
昭和天皇ご夫妻の希望で、鈴木は全く違う仕事に就くことになりました。
侍従長という、簡単に言えば宮中のお世話係のリーダーです。
なぜ根っからの軍人だった鈴木が指名されたのかはよくわかりませんが、既に陸軍が張作霖爆殺事件(昭和三年・1929年)を起こした後ですから、お側に海軍出身の人物を置くことによってバランスを取ろうという狙いだったのかもしれません。
本人は侍従の仕事には向いていないと思っていたそうで、実務については経験豊富な人に任せ、主に昭和天皇の相談役を務めていたようです。
鈴木は昭和天皇より30歳以上年上でしたし、明治の激変を生きてきた人物として頼れる人物であるとお考えだったのでしょうか。
しかし、これによって鈴木は生死の境を彷徨うことになります。
昭和十一年(1936年)の二・二六事件で、「君側の奸」(主君の側のけしからん奴)とのレッテルをはられて、ターゲットの一人に選ばれてしまったのです。
左足・左胸・頭部に銃弾を受け、さらに軍刀で止めを刺されるところだったのを、妻のたかが身を挺して庇ったのだとか。
しかもその庇い方が「老人ですから、止めを刺すのはやめてください。どうしてもというなら、わたくしが致します!」という台詞だったというのですから、これには襲撃者達も引かざるをえませんでした。
襲撃班のリーダー・安藤輝三が鈴木と以前話したことがあり、最終的に止めを刺す気がなくなってしまったという理由もあります。
……ならそもそも襲うなという気がしないでもないですが、実際に発砲命令を出したのは安藤ではなく別人で、撃ったのも兵卒だったので仕方ない。

というか、「君側の奸」って主君が判断することであって臣下が決め付けるものじゃないと思うんですけども。この重大すぎる勘違いで、いったい歴史上何人の忠臣が殺されてしまったのやら。

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終戦まぎわに総理大臣に

まあそれはさておき。
太平洋戦争終結の年、昭和二十年(1945年)の4月、鈴木は総理大臣に任命されました。
このとき鈴木は枢密院(天皇が各所へ質問するときに通す役所のようなもの)の院長を務めていたため、またしても全く違う仕事を命じられたことになります。
枢密院自体が天皇の信任が厚くなければできない仕事ですし、総理となればなおさらです。昭和天皇は本当に鈴木を頼りにしていたのでしょう。
他の重臣達もほぼ異議はなく、辞退しようとする鈴木に対し「もう他に人はいない。どうか頼む」とまで仰っていたそうです。
これを指して鈴木を「唯一天皇に”お願い”された男」と言うこともありますね。

このとき既に鈴木は77歳。現在に至るまで最高齢の総理就任でした。
日に日に悪化する情勢に対し、終戦工作を続けましたが、ソ連の裏切りにより一時頓挫してしまいます。
国内外のマスコミがポツダム宣言について穿った報道をしたことも相まって、さらに状況は悪化。
鈴木は最終的に「天皇の名の下に起きた戦争は、天皇の名によって終わらせるほかない」と考えます。そうでなければ国民が納得せず、更なる死者が増えることを懸念してのことでした。
これは昭和天皇にも受け入れられ、玉音放送が決定されます。
が、鈴木をまたしても凶刃が襲います。
終戦に納得いかない一部の軍人が降伏阻止を図り、鈴木をはじめとした要人の殺害とクーデターをしかけたのです。
間一髪鈴木は助かりましたが、敗戦と事件の責任を取り、内閣ごと辞職しています。

その後は「敗軍の将である」ということで積極的に政治へ関わろうとはしませんでした。
二回暗殺されかけて命が惜しくなっただけではなく、元とはいえ軍人が政治に関与することは相応しくないと考えたのでしょう。
自ら「敗軍の将」という単語を出すくらいですから、実質的にはとっくのとうに軍を離れていても、自分は「軍人」であるという意識が残っていたと思われます。
こうして日清・日露戦争から太平洋戦争という、日本史上最も大きな苦難の時代を生き抜いた鈴木は、肝臓がんにより80歳で亡くなりました。
時代的にも役職的にも、おそらく気の休まる日々はほとんどなかったことでしょう。
教科書などでよく見かける、鈴木の総理大臣時の写真にはその生き様がよく表れているように思われます。憔悴しきったと見ることもできますし、国家最大の危機に対し決然とした面持ちであると捉えることもできるでしょう。

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……などとエラソーに言っているワタクシも、ただ暗記させられた学生時代には特に何も感じなかったのですが。今改めてお顔を拝見すると、一体どのような気持ちでそれぞれの職務を務めておられたのだろう、と考えてしまいます。
長月七紀・記
参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/鈴木貫太郎




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