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ドイツ保守党の集会にて。軍服姿の人物がモルトケ/wikipediaより引用

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その日、歴史が動いた

マジメで有能 教養もある偉大なドイツ軍人・大モルトケ【その日、歴史が動いた】

更新日:

 

昨日に引き続き、本日もまたドイツのお話です。
といってもビールではありません。もう一つの名物?マジメ人間のお話です。

1841年(明治二十四年)の4月24日、プロイセン王国の元帥(軍で一番エライ人)を勤めたヘルムート・フォン・モルトケが亡くなりました。

先日もご紹介したように、「プロイセン王国といえばビスマルク」という印象をお持ちの方が多いと思いますが、このモルトケの力がなければあそこまで成功することはなかったのではないか?とも考えられるほど重要な人物です。

メクレンブルク=シュヴェリーン公国生まれ

モルトケとビスマルクは生活習慣から性格まで全くといっていいほど共通点がありませんでしたが、ドイツ統一のためにお互いの仕事へ協力し合うという公私の分別をつけていたので、これまた大人の対応といえます。
カップラーメンの値段やら持病の下痢やらをあげつらう昨今の政治家センセイ方にもぜひ見習って欲しいものです。

さて、ではそんなスゴイ人の生涯をざっくり見て行きましょう。

モルトケは、デンマークに程近いメクレンブルク=シュヴェリーン公国という舌を噛みそうな名前の国に生まれました。神聖ローマ帝国の中にあった国の一つです。

”フォン”がつく通り代々貴族の家系で、13世紀までご先祖をさかのぼることができるそうです。日本で言えば「鎌倉以来の名家」ですかね。

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学者を目指すも学費が払えずに・・・

しかし、モルトケが生まれた頃には食うや食わずの状態まで没落していたため、生活は決して楽ではなかったようです。

お父さんもプロイセン軍人だったのですが、モルトケが幼い頃にデンマーク領へ引っ越したので、当初はデンマークの学校で学んだ後デンマーク軍へ入りました。

本当は学者の道へ行きたかったそうなのですが、学費が払えず軍へ入ったというのですから涙がちょちょ切れます。お金がないばかりに夢を諦めなければならないという人はいつの時代もいますが、もしモルトケ家の財布が潤っていたら、ドイツ統一が遅れていたかもしれないんですねえ。

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デンマークを見限りプロイセンへ

時はナポレオン1世の全盛期~凋落期。

この頃デンマークはフランスと同盟を組んでいたので、当然のことながらナポレオンと運命を共にすることになります。といっても流石に国は滅びていません。その代わり?長年支配していたノルウェーを失ってしまっていました。

これを見たモルトケは、同時期に訪れたベルリンの町の発展から「ナポレオンに勝ったっていうし、これからはプロイセンの時代が来る!」と判断します。

そしてあっさりデンマーク軍を辞め、プロイセンの陸軍大学に入りました。

よくあっさり敵国の軍に入れたなという気がしないでもないですが、お父さんが元プロイセン軍人だったこと、デンマークの内情に通じていることがかえって良かったようです。

軍事よりも文学や語学を学んでいた

当時のプロイセン陸軍大学では比較的自由に科目を選ぶことができたため、モルトケは軍事よりも、好きな文学や語学を熱心に学んでいたとか。何のために郡の大学を選んだんだとか言ってはいけません。一応戦術・戦略に重要な地理も力を入れています。

それに、文学や言語を知ることは自国・他国問わず国民性を知る手段でもありますので、これまた軍事と全く無関係ではありません。

この一見奇妙な学習スタイルは、後々モルトケの人格に大きく影響を与えていくことになります。
学問についても軍事面についても「アンタ最高!!」という評価をもらって大学卒業したモルトケは、まずポーランドとの国境にあるフランクフルト・アン・デア・オーダーというこれまた長い名前の街で兵学校の教官になりました。

今もですが、教師というのはよほど太っ腹な学校に勤めない限りは懐事情が寂しいものです。モルトケも例外ではなく、論文や小説といった文筆業をして生活の足しにしていたそうで。
”依頼されて受けた仕事の3/4が終わったところで、依頼主から「やっぱあの話はナシで」と言われ、本来の報酬の1/3しかもらえなかった”など、ここでもお金には苦労しています。

現代の物書きも決してラクに儲かる仕事ではありませんので、ライターの末座にいる身としては彼の心情を察するに余りあるところです。

瀕死の病人・オスマン帝国へ派遣

しかし、この副業の中で軍の目に止まったものがありました。お咎めを受けたわけではなく、「お前、地理に詳しいなら地図作りの部署に行け」ということになったのです。
陸軍の強さに定評のあるプロイセン軍ですが、このときはまだ正確な地図が出来上がっておらず、地理の知識を持った人物が求められていたのでした。「芸は身を助く」ってヤツですね。

その後もフリードリヒ2世(大王。プロイセンが大国になるきっかけを作った18世紀の王様)や、デンマーク軍についての著述をするなど、彼の文才は折に触れて役立っていきます。

また、物を教えるのも得意だったようで、当時既に”瀕死の病人”と揶揄されていたオスマン帝国へ軍事教官として派遣されています。
近代化と書いて「オスマン帝国最後の悪あがき」と読む一連の改革のためでしたが、現地に出ている士官をはじめとした軍人達は、モルトケの忠告や進言を受け入れず精神論ばかりを優先したため、散々な有様でエジプト相手にボロ負けします。あーあ。

根性で戦争に勝てれば軍隊はいらん、という話ですね。よそのことは言えませんが。
モルトケが直接指揮した部隊は最後まで善戦していたそうなので、彼に目をつけた皇帝・マフムト2世の観察眼は間違っていなかったのですけれども。

帰国後は鉄ちゃんに転身!?

戦争の最中に、マフムト2世が亡くなっていたのも大きいかもしれません。
モルトケは帰国前にお墓参りに行っているので、二人の関係は悪くなかったものと思われます。オスマン帝国はイスラム教、モルトケはキリスト教徒ですし、当時の感覚からすると、「異教徒のお墓へ花を手向ける」というのはある程度人格を尊重していないとできないのではないでしょうか。

ただ単に墓前に報告しただけかもしれませんが、そこはキレイな想像をしておきましょう。

こうして異国の地で「古い考えが足かせになることもある」ということを目の当たりにしたモルトケは、プロイセンへの帰国後、軍の参謀職につきました。

が、今度はいきなり「ベルリンからハンブルクまで鉄道を引きたいから、お前よろしく^^」と命じられます。
当時モルトケは鉄道に関してほとんど知らなかったそうですが、仕事をしながら知識を身につけ、任務を無事遂行するころにはまた論文を書いています。

鉄道=輸送能力も軍事にはとても重要なことですので、やっているうちに熱が入ったんでしょうかね。
こういう風に「積極的に仕事をしつつ、趣味にも生かす」という器用さがモルトケ最大の長所かもしれません。ぜひ見習いたいものです。

ビスマルクとの関係が深まっていく

それからはさらに王子のお付き武官や外交官としても働き、57歳でやっと参謀総長として腰を落ち着けます。
さんざんこき使わ……ゲフンゲフン、さまざまな仕事をしてきたからか、あまり出世欲や権力欲はなく、淡々と職務をこなしていたそうです。カッコイイ。

というかそもそも指揮命令に忠実でなければ戦争には勝てないのですから、軍人が欲を出すのは褒められた話じゃないですしね。何故か欲の塊になる人もいますが。

参謀本部の改革にあたり、各方面ごとの課を創設した際ちゃっかり鉄道課も作っています。別に鉄オタの世界に入ったわけではなく、鉄道の軍事利用を考えていたからです。
民間人に迷惑がかからないように時間を見計らって兵の輸送演習をするなど、細かい心配りもしていました。ホント何してもデキる人ですねうまやらしい。

鉄道の軍事面における有用性は、その後起きたデンマーク戦争や普墺戦争で実践・証明されることになります。
この辺からビスマルクとの協力関係も定番化し始め、ヴィルヘルム1世からの信任も厚くなりました。

同時期の写真で、モルトケ・ビスマルク・ローン(陸軍大臣)が並んで立っているところを写したものがあるのですが、身長約190cmと言われているビスマルクに対して他の二人がちっとも低く見えないのが恐ろしいところです。民族的に大柄というのもあるでしょうけども。

もしかしてビールに身長を伸ばす効果とかあるんでしょうか。ンなバカな。

フランスに勝利して世界最強の称号をゲット

まあ身長の件はさておき、ビスマルクの計画に従ってドイツ統一へ進むプロイセン王国には、もう一つ戦争に勝つ必要がありました。ナポレオン3世が頑張っていたフランス帝国相手に、です。
これまでの経験や新しい鉄道の建設で「これで勝つる!!」と自信を持っていたモルトケは、ビスマルクから「いつやるか?」と聞かれ「今でしょ!」と答え、すぐさま開戦準備が進められます。
※上記のやり取りはイメージです。実際の会話とは完全に違うことが予測されます。

「来た、見た、勝った」ほどの短期決戦とはいきませんでしたが、当時(ナポレオンの七光りで)最強とみなされていたフランス軍相手に1年もかからず勝利を収め、代わってプロイセン軍が世界最高の軍隊と称されるようになります。

この戦果により、神聖ローマ帝国以来まとまりきらなかったドイツ内諸国も「強い軍隊バンザイ!!」ということでプロイセン軍に学ぶようになり、ドイツ統一へ大きな役割を果たしました。

また、モルトケは議員でもあったので、議会で演説をすることもありました。文才があったこと、教職の経験もあることからか話すのも上手だったそうですよ。
専門である軍事問題のみを取り扱い、簡潔かつ人の悪口が含まれていなかったため、どんな人相手でもウケが良かったとか。
この辺も現代の国会議員センセイ方にはぜひ参考にしていただきたいものです。

80才になっても「辞職は許可しましぇーん」

しかし、さすがのモルトケも加齢による体力の衰えには抗いがたいものがありました。

ドイツ統一のときでも70歳を超えていましたし、80歳になってもまだ現役軍人・議員でしたので、体に堪えるのは当然の話です。しかし、健康を理由に辞職を申し出た彼に対する皇帝(ヴィルヘルム1世)の反応がこれまたスゴイ。

「お前があまりに優秀だから、辞職は許可できない」(意訳)という理由で、辞職届をつき返したのです。ヴィルヘルム1世のほうが年上ですから「俺より先に隠居するつもりか^^」という気持ちもあったのかもしれませんね。

その代わりに、サポートする人間を増やして仕事を軽減するような措置は取ってくれました。……ツンデレ?

 

その後ヴィルヘルム1世やその後を継いだフリードリヒ3世が亡くなった後、ヴィルヘルム2世によってようやく辞職の許可が出ます。モルトケは既に88歳になっていました。

ヴィルヘルム2世はあまりいい皇帝ではありませんでしたが、さすがのこの歳のご老人をいつまでもこき使うことには気が引けたらしく、「正直キツイけど、お前には長生きして欲しいからいいよ」(意訳)と言い、名誉職のみを残してモルトケの立場も守ってくれました。

ここだけ見ればいい人なんだけどなあ。

誕生日には一兵卒から詩が届けられるほど慕われていた

引退してからもモルトケを慕う人は多く、90歳の誕生日には皇帝以下各地の諸侯達、軍人、各界の名士が盛大なお祝いをしたそうです。

一兵士からも手紙が届いたといいますから、本当に上から下まで慕われていたのでしょう。普通平社員が社長の誕生日を祝うとかしませんものね。会社の強制でなければ。

その手紙にはお祝いを表す詩が書かれており、これを読んだモルトケは「一歩兵ですらこのように美しい詩を書ける我が軍には、やってやれないことは何もないだろう」と絶賛しています。モルトケにとってはまさにわが子に等しい自分の軍隊ですから、ひいき目と見ることもできますけれど、自分の功績や後進の働き、現場の人間への信頼から出た言葉なのでしょうね。

42才になって義理の姪っ子16才と結婚

ところで、彼は若かりし頃あっちこっちへ行き来していたため、結婚が遅れに遅れていました。

無事結婚したのは42歳のとき、しかも義理の姪っ子(1 6 歳)相手という、これまた常人ではほとんどありえなさそうな道を選んでいます。
子供は生まれなかったそうですが、夕方に夫婦揃って聖書を読むのが日課であったなど、ラブラブぶりが伝わっています。

が、彼女は結婚から22年後、モルトケ68歳のときに亡くなってしまいます。26歳もの歳の差があれば歳の順番に……となるはずが逆転してしまったのですから、どれほど悲しんだことでしょう。

その後も再婚せず、さらに90歳で亡くなったときは先立った奥さんの肖像画を見ていたそうですから、本当に愛していたのでしょうね。
ただの○リコンではないんですよ決して。

軍人というととかく厳しい人を想像することが多いですが、そもそも家族や周囲の人に対する親愛が強くなければ国を守れませんから、情の濃い人も多いんですよね。

何をやらせてもデキて、人格も優れているなんてまさに完璧としかいいようがありません。

万が一大河ドラマが「外国人おk」という方針になるようなことがあれば、候補に挙がる人物の一人ではないでしょうか。

 

 

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長月 七紀・記
参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/モルトケ




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