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その日、歴史が動いた

5月7日 真田幸村散り 大坂城落城 豊臣家滅亡へ【その日、歴史が動いた】

更新日:

昨日に引き続き、本日も大坂夏の陣のお話です。豊臣家の最後のお話でもあります。

慶長二十年(1615年)のあす5月7日、大坂城が落とされ豊臣家が滅びました(秀頼自刃は8日)。

冬の陣と違うのは、既に大坂城には防御機能がほとんどなかったため、実質的には城の前庭とも呼ぶべき場所での戦闘が最終決戦となったことです。
方角としては大坂城の南側二ヶ所、天王寺口と岡山口でそれぞれ激戦が繰り広げられました。
戦闘が開始されたのはどちらも正午頃、終了も午後三時とほぼ同時進行ですが、ややこしいので昨日と同じく一つずつ見てみましょう。

 

1、天王寺口の戦い

yukimura幸村大坂の陣2
こちらに布陣した中で一番有名なのは真田信繁(幸村)でしょう。
その他大坂方には、関が原で義に殉じて亡くなった大谷吉継の息子吉治(よしはる)、家を飛び出していた細川興秋(忠興の次男)、前日も信繁と同じく奮戦していた明石全登、実は道明寺の戦いで殿軍(しんがり。戦場から最後に撤退する軍)を任されていた毛利勝永など、前日多くの将を失っていながらまだ人材が残っていました。
前日八尾の戦いで勝利を収めていた長宗我部盛親は、兵の損耗が激しかったため前線には出ず、北側の守備にまわりました。このことからも、おそらく長宗我部隊に元家臣が多かったであろうことが推測できますね。

徳川方では、ざっくり言うと戦国時代に名を馳せた人物の息子達を主とした布陣がされています。
例えば無傷伝説こと本多忠勝の息子・忠朝、浅野長政の息子長晟(ながあきら)などです。
戦国武将でも比較的若手(だいたい1550年代以降生まれ)の人の場合は、本人はもちろん息子と一緒に参戦している例もあります。細川忠興や伊達政宗などですね。
家康も息子どころか孫連れですから、これが戦でなければ心温まる一家団欒といいたいところなのですがそうもいきません。既に大御所となっていた狸の本陣がこちらにあったため、どこの軍も戦々恐々とした面持ちだったことでしょう。

口火を切ったのは、大坂方の毛利隊による銃撃でした。
いつの時代も先手必勝というのは変わらないようで、勢いに乗って本多忠朝を討ち取ります。別の隊もこれに乗って前進し、家康本陣を丸裸にするほどでした。
「真田信繁が家康の本陣を襲撃した」という話はこのときのものです。実はその前に勇戦した部隊がいくつもいたんですね。

幸村、突撃す(富永商太・絵)

幸村、突撃す(富永商太・絵)

大坂方は何度も退いては攻め、攻めては引きを繰り返しましたが、絶対的な兵数の差により少しずつ押し返されてしまいます。そして信繁は、前日家康の叱責(イチャモン)にブチ切れていた松平忠直隊によって休息中に討ち取られ、他の隊も乱戦の中で主将を失い壊滅状態に陥りました。
最後まで戦線を保っていたのが、戦をおっぱじめた毛利隊だったというのが何ともいえません。彼もサボっていたわけではなく、四方を囲まれたため仕方なく城へ引き上げているのですが。

 

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2、岡山口の戦い

こちらは天王寺口の戦闘が開始されてから、追いかけるような形で戦が始まっています。
後見についていた立花宗茂が「秀忠様が出て行くと的になってしまいますので、後ろでどっしり構えていてください」といったにもかかわらず、血気にはやる現役将軍・徳川秀忠は前進してしまい、父親と同じく大坂方から突撃を受けてしまいます。あーあ。

こちらに布陣していた大阪方は大野治長・治房兄弟など、現代の一般人からすればあまり猛将のイメージがない人々でしたが、秀忠の陣は大混乱に陥りました。
秀忠にとっては「待ってました!」という状況だったようですが、お目付けに来ていた本多正信に「いやいや、上様が御自ら手を出すまでもありません(だから大人しくしてろボケ)」となだめられています。

この頃秀忠は30代半ばですから、もう少し落ち着いていても良さそうなものですが……よほど関が原での大遅刻や、冬の陣の際、無茶な行軍をして家康に怒られたのを気にしていたと見えます。
後方のほぼ見学席といってもいいようなところに義直や頼宣といった幼い弟達がいますが、「よーしお兄ちゃん頑張っちゃうぞー」とか考えてたわけはないですよねまさか。……まさか。

混乱が落ち着いてからはやはり数で勝る徳川方が有利になり、秀忠の周辺も守りを固め、大野隊他大阪方を押し返します。
形勢逆転を見た大坂方は秀頼自らの出馬を待っていたといわれますが、戦国どころか日本史上稀に見る最強のモンペこと淀殿が納得せず、結局間に合いませんでした。
たとえはるか後方のお飾りであっても、総大将が戦場にいるだけで士気って上がるものなんですが、淀殿にはそうした機微が全くわからなかったようです。
彼女なりに考えた結果「戦場と近いんだから、城の中にいても同じでしょ?だったら危ないところになんて行かないほうがいいじゃない!!」と思ったのかもしれませんが。この辺は武将とお姫様の違いというより、男女による思考の壁ですかね。

淀殿と言うと怪しい祈祷派^-ティーで秀頼を産んだとの説があります(絵・くらたにゆきこ)

淀殿と言うと怪しい祈祷派^-ティーで秀頼を産んだとの説があります(絵・くらたにゆきこ)

 

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激戦も数にまさる徳川軍が勝利し

こうしてどちらの方面も大坂方の敗北に終わり、戦闘は三時間ほどで終了。その一時間後には内通者が大坂城に火をつけ、ここに豊臣家は滅亡を迎えました。
火の勢いはすさまじく、京の街からも見えたほどだったといいます。

翌8日、秀頼と淀殿は引き上げてきた毛利勝長に介錯され、形式的にも実質的にも豊臣家は秀吉の辞世の句がごとく、なにわの夢と消え去ったのでした。
ところが、この戦いで死んだはずの人々の生存説もあります。
特に有名なのは「真田幸村が秀頼を連れて、薩摩まで逃げた」というもの。
”花の様なる秀頼様を、鬼の様なる真田が連れて、退きも退いたり鹿児島へ”という唄にもなっています。どんな節だったんですかね。
というか、この頃の秀頼は祖父・浅井長政似の超巨漢(身長190cm↑・体重160kg超)だったそうなので、もしこれが本当ならとても「花のような」とは形容しがたい気がするのですがゲフンゲフン。
多分、実際の秀頼を見たことのない人が「秀頼様は公家風の教育を受けていらっしゃるというし、きっと華奢な貴公子に違いない!」と思ってこういう歌詞にしたんでしょうね。ということは、やはり俗説であって信憑性は薄いかと。
義経=チンギス・ハン説ほどのトンデモではありませんが、こういう生存説って理屈よりも民衆の願望による面が強いですし。
ちなみに秀頼生存説がさらに発展して、島原の乱の首領・天草四郎が秀頼の息子という話にまで派生していたりします。いやいやこじつけにも程があるやろ。

武将の中では明石全登の行方がわからなくなっており、やはり生存説が囁かれていますが、こちらは松平忠直隊に突撃の後行方不明ということらしいので、おそらく遺体が見つからなかっただけで、戦死していた可能性が高そうですけども。
もう気温が高くなってくる時期ですし、面が割れていても損傷によって判別がつかなくなっていたということは充分考えられますしね

季節的にはもう少し後の話(旧暦6月=新暦のだいたい7月)ですが、明智光秀が山崎の戦いで敗れ自刃した後、秀吉のもとに首が届けられた際は顔の判別がつかないほどの傷みようだったといいますから、当時の保存技術などからすればありえない話ではありません。

真田信繁の首も、後になってから「これもしかしてアイツじゃね?」という話になったそうですし。

これによって戦国の世が終わりを告げたことに安心したのか、ついにエネルギーが切れたのか、翌年には家康も亡くなり、まさに一つの時代が終焉に向かいます。
約二十年後島原の乱が起きましたが、幕府軍の戦い方は大坂の役(冬の陣と夏の陣を合わせた呼び方)に参戦していた大名からは「まったく今時の若いモンはたるんどる!」(超訳)というお決まりの罵声が飛びました。そのくらい時勢が変わっていたんですね。
もしくは、そこまで諸大名を骨抜きにした江戸幕府の政策がすげえという話にもなるでしょうか。あまり気分のいいものではありませんが。
豊臣家の滅亡に目が行ってしまいますけれども、実はとても大きな歴史の節目だったんですねえ。

長月七紀・記

参考:

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http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/05/post_dd83.html
   http://indoor-mama.cocolog-nifty.com/turedure/2007/05/post_4afb.html




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