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新田義貞(月岡芳年作、Wikipediaより)

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その日、歴史が動いた 鎌倉・室町時代

湊川の戦いで忠臣のレッテル外された新田義貞を持ち上げてみる

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ヘンな話ですが、歴史上の人物=国に影響を残すような出来事に関係した人も大変なものです。
たった一度の成功で名を残し高評価を得ることもあれば、そうした人を引き立てるために創作や逸話で不当に貶められる人もいるのですから。

現代でも「Aさんに比べてBさんはダメダメよねープークスクス」なんて言い方をすることがありますので、歴史上に限ったわけでもないですけどね。極端すぎる比較イクナイ。
ということで(どういう)本日は久々に、とある武将についての判官びいきをしまくりたいと思います。

新田義貞(月岡芳年作、Wikipediaより)

新田義貞(月岡芳年作、Wikipediaより)

愚将と名高い新田義貞を持ち上げる

延元元年(1336年)の5月25日、湊川の戦いがありました。
湊川=楠木正成のイメージが強いのでその話をしても良いのですが、既に楠木家については何度も取り上げていますので、今回はもう一人の南朝方(後醍醐天皇方)武将であった新田義貞のお話をさせていただきますね。

まずは南北朝の動乱について、ざっくり捉えるところから始めましょう。例によってテキトーですので、学生の皆さんはくれぐれも本気で受け取らないようにお願いいたします(真顔)
そもそもどのくらいの時期を「南北朝時代」というのかはまた別の定義になってきますが、概ね”鎌倉時代中期から室町時代初期まで、皇室が仲間割れしてた時代”と考えれば良いかと思います。で、その中で一番ドンパチをやってたのが鎌倉幕府が倒れ、室町幕府ができるまでの間です。
というか基本的にこの辺しか話題にならな(ry

そして仲間割れしただけにとどまらず、それぞれ勝手に天皇を名乗り始めたので話がややこしくなってきます。
大覚寺統とか持明院統とか「どっちがどっちやねん」ってなるアレですね。
ここへさらに、鎌倉幕府を倒した武士たちが「オレはあっちにつくわ」「じゃあワシはお前キライだから向こうにつくぞい」なんて風に味方していったので、話が余計こんがらがってきます。

鎌倉幕府打倒まではまだマシだったのですが、後醍醐天皇が建武の親政でトンチンカンなことをやってしまったおかげで、主に武士は激おこになりました。
「新しい天皇陛下を立てて、あのボケを廃位して新しい政権を作ろう!」となり、まとまったのが北朝方。
当然南朝側は「させるかボケ!」と対抗し、双方についた武士の間で戦になります。というか、両系統の天皇が武士に命じます。

世の中の流れが「やっぱ武士には政治なんかできねえよ。皇室や公家が音頭を取らないとね!」という感じになっていたので、まるで平治の乱のような動きです。300年前とやることが変わってないってどうなのよ。

これまたテキトーにまとめると、対立の構図としてはこんな感じです↓

【南朝(大覚寺統)】後醍醐天皇・楠木正成・新田義貞
vs
【北朝(持明院統)】光明天皇・足利尊氏・高師直

そしてあっちこっちで大移動をしながら戦をやることになるわけですが、必ずしもどちらかが有利でどちらかが不利一方という状態ではありませんでした。

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幕府の創始者は一度は死にものぐるいで逃げる、の法則

足利尊氏「九州にはバカンスにいっただけです。指原と一緒にしないで」(Wikipediaより)

最終的には北朝についた足利尊氏が室町幕府を作るんですけども、それまでの間には優勢劣勢が頻繁に入れ替わっていたのです。尊氏も一度大負けに負けて九州まで逃げたことがあります。

余談ですけど、源頼朝が関東に流されたときといい、徳川家康の伊賀越えといい、「幕府創設者は一度死に物狂いで逃げなくてはいけない」みたいな法則があるんですかね。

しかし、尊氏はめげません。いや途中めげてたっぽいんですが、それは尊氏元々がテンションの落差が激しい人物だったからで、周囲に「頑張れ頑張れできるできる!」(※イメージ)と励まされてからは再び戦況を打開すべく兵を挙げました。
これに対し「また尊氏か」ということで南朝方も準備を整えます。
そしてぶつかったのが湊川の戦いです。

(尊氏のこの間のことについては、きのうの記事でも登場していただいた恵美嘉樹さんの「指原莉乃と足利尊氏の足跡が完全に一致した件がなにげにまとまっていて、ざっくりわかります)

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準備段階で敗北見えた?湊川の戦い


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ですが、実は準備の時点で勝敗は決したも同然でした。
水軍(海軍)を整えて東上した尊氏らに対し、正成や義貞はその用意ができず、陸での戦一本で立ち向かおうとします。
しかも、元々兵数では尊氏のほうが圧倒的に上でしたので、水陸両方から徐々に包囲を狭められれば打つ手はありません。こうした敵方の動きに対し、義貞は「ここじゃ勝てない」と判断・一時撤退します。
一方正成は残り、最後まで戦った後一族揃って自害しました。

戦略的撤退の新田義貞「徳川慶喜と一緒ににするな!」

このため「義貞のアホが逃げたせいで正成が死んだ」と言われてしまうことが多いのですが、それはあまりに短絡的な見方でしょう。
不利な状況で潔く死ぬのも美学ですけども、場所を改めて出直すのも立派な戦略です。
そもそも正成と義貞は元の身分(正成は悪党と呼ばれるヒャッハーの親分、義貞は本物の河内源氏)から出身地など、何から何まで違うので考え方も一致していたとは言いがたく、どちらかが100%良くて他方が100%悪いとは言い切れません。

それに、義貞は逃げ返って一人助かったわけではありませんでした。場所を改めて再び戦いを挑んでいます。
やはり圧倒的に不利だったため、最後は義貞自ら源氏に伝わる名刀・鬼切や鬼丸国綱(御物=皇室のお宝)で奮戦したそうです。ということは、別に命惜しさで正成を見捨てたわけではないとみて間違いないでしょう。
「ここで俺死ぬから!」と言い張っていたのを、部下に「アホか、アンタがいないとダメだろ!はよ逃げんかい!!」と言われて無理やり逃げさせられたほどです。
その部下は身代わりに亡くなったそうですから、人望もなくはなかったのでしょう。

こうして湊川の戦いは尊氏=北朝方の勝利に終わり、ここから体勢がひっくり返ることはありませんでした。
義貞は北陸まで落ち伸び、最後まで戦って討死しています。そういう意味では正成と同じ死に方をしたともいえますね。
彼にはまだまだフォローしたい点があるので、またいずれご登場いただきましょう。

長月七紀・記

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参考:http://ja.wikipedia.org/wiki/湊川の戦い

 




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